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今年は民間劇場の閉館のニュースが相次いだ。2月の大阪・スペースゼロ(4月閉館)に始まり、3月の東京グローブ座(7月閉館)と扇町ミュージアムスクエア(2003年3月閉館)、6月の近鉄劇場・近鉄小劇場(2004年1月閉館)、昨年から発表されていた札幌・コンカリーニョの8月閉館、そして11月には大阪・一心寺PART2も閉館する。このうち東京グローブ座はジャニーズ事務所による2003年秋の再開、コンカリーニョはNPO法人設立及び2005年の拠点確保が予定されているが、他の劇場は現時点で代替施設の情報がなく、このままでは純粋に場の減少となる。

閉館の主な理由は施設の老朽化や経営難によるものだが、こうした動きを伝える報道や演劇人の反応には、劇場がなくなることが演劇文化の喪失であるかのような内容が目立つ。そして、その論旨の延長として新たな劇場の確保が急務であると結論づけされているが、果たしてそれが本当の解決になるのだろうか。劇場経営を難しくしている要因を分析せず、劇場が果たす役割へ過剰な期待をしているだけでは、たとえ「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻」したところで、関西小劇場界を巡る状況はなんら改善されないと思う。

私が主張したいのは次の3点だ。

  1. 現在の税制では、民間劇場経営は営利事業以外の何物でもない(この点の法改正はもちろん訴えていく必要があるが、残念ながらこれが現実だ)。劇場の必要性は需要と供給の市場原理で決まる。従って、本当に観客を魅了する作品を提供出来るのなら、公演日程はロングランとなり、劇場を建てる必然性も生じる。民間劇場が苦しい現状は稼働率の低さ、つまり良質な作品を提供出来ない演劇界自身の反映でもある。こうした現状への反省なしに、劇場を建てることだけを声高に叫んでも仕方ないのではないか。観客側も、芝居を観たことのない友人を全員一人ずつ誘い、結果的に観劇人口を倍増させるぐらいの動きが必要だろう。
  2. 劇場という拠りどころを失う観客の心境は理解出来る。観客が自らの立場で劇場の必要性を訴えるのは自然な姿だろう。しかし、演劇人にとって劇場とはまさに仕事の場で、それを失うことが本当に死活問題だと考えるのなら、行政や経済界に直接働きかけ、新しい劇場の確保に本気で取り組むべきである。関西におけるコンテンポラリーダンスの拠点を身を粉にして確保した大谷燠プロデューサー(トリイホール→Art Theater dB)の動きを見習うべきである。大阪現代舞台芸術協会をNPO法人化し、劇場運営を受託する体制を取るべきではないか。そこまで覚悟を決めてやらないのなら、劇場を使用する側(劇場を選べる側)の意見表明だけに終わってしまうのではないか。
  3. 劇場はハードだけでなく、演劇文化を育むソフトとしての役割があるという主張がある。確かにそのとおりだが、だからといって劇場がないと演劇が出来ないわけではない。これまで演劇に使われることの少なかったホールの開拓や既存スペースの活用などは、制作者にとってもやりがいのある交渉だし、劇作家・演出家にとっても創作意欲を掻き立てられる挑戦ではないのか。劇場があるに越したことはないが、それがないデメリットを強調することは、私には劇場の過保護さに浸り切っているように映る。関西に長くいると関西のスタイルが当たり前のように思えてしまうが、冷静に東京と比較してみると、劇場が用意してくれた道を行くのではなく、自ら道を切り拓く人材が関西には育っていないように思えるのだ。劇場が制作をサポートする関西の伝統が、諸刃の剣であることを考える時期に来ていると思う。

劇場の問題を考えるときに私が痛感するのは、カンパニーも観客も、結局は劇場の当事者ではないということだ。カンパニーは公演規模が大きくなるに従って小劇場を卒業するし、当然ながら作品によって劇場を選ぶ。観客も劇場ではなく、そこで公演される作品で選択する。慣れ親しんだ空間への愛情はあるだろうが、実際にリスクを背負って劇場を運営していくのは劇場側の人々だ。声援で劇場側を励ますことは出来るだろう。けれど、本当に劇場側が望んでいるのはカンパニーによる魅力ある作品の提供、観客自身による観劇人口創出の努力なのだ。これには劇場側のプロデュース力や宣伝力も問われるが、劇場を建てる論議の前に、それぞれの立場の人々が自分に出来ることをいま一度見つめ直すことが必要だと思う。

マスコミの報道も、もっとなんとかならないものか。劇場閉館を嘆くだけの記事なら学生にだって書ける。日本の演劇文化を育てるためにはどんなシステムが必要なのか、創造環境全体を踏まえた視点の記事に出会いたいものだ。