この記事は2006年7月に掲載されたものです。
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ロングラン定着で小劇場演劇から〈負の連鎖〉を断ち切れ!
まず、結論から書きたい。
小劇場演劇の創造環境と興行システムを改善し、演劇をもっと多くの人々の身近な存在にするためには、公演期間12日間以上(劇場契約2週間=仕込み2日+本番12日)を原則としたロングランを定着させるしかないと私は考える。対処療法ではない根本治療はこれしかない。
ロングランの導入は、実力次第で制作者がイニシアチブを取れる有効な手段であり、それによって創作過程や観客へ好影響を与える〈正の連鎖〉を生む。これを読んでいる制作者に訴えたい。あなたは演劇を巡る環境を変えたいと思わないか。学校や勤務先で、映画と同じように演劇の話題が通用する世の中にしたいと思わないか。小劇場好き=めずらしい人という概念を変えたいと思わないか。動員至上主義ではなく、せめてもう少し演劇の存在を社会に根付かせたいのだ。そのためには、小劇場演劇でもロングランを定着させてほしい。
小劇場演劇が一般の観客を獲得出来ない大きな理由に、なにを観たらいいかわからない、玉石混交でリスクが高い、話題になるのは公演終了後かチケット完売後などが挙げられる。いずれも短期間の公演がひしめいているための弊害だ。これが映画なら、映画館に行けば少なくとも一定水準をクリアした作品に出会えると観客は信じている。ロードショー館で自主製作を上映しているとは思わない。それが映画と演劇の決定的違いだ。誰でも手軽に表現出来ることが演劇の強みだが、だからといってそんなに簡単に劇場で公演していいものだろうか。
情報誌に定番で載る小劇場なら、なにも知らない観客は一定水準をクリアした作品と期待するが、実態は小劇場クラスでは玉石混交だ。他の表現ジャンルなら明らかに区別されることが、演劇では出来ていない。良し悪しの問題ではなく、観客に不親切だと思う。劇場費がかさむ中劇場クラスでやっと差別化が進むが、それでも公共ホールや演劇祭などが入り乱れ、どこがオススメなのか観客は本当に迷うだろう。迷ったあげくハズレに当たってしまった日には、二度と演劇を観ようと思わないかも知れない。
多くの演劇関係者が、東京は世界一公演数の多い都市だと書いている。夜毎これほどの公演が打たれる街はないという。けれど、それはいいことなのか。公演というけれど、実は習作レベルのものが劇場に進出しているだけのことではないのか。劇団数の多さだけを誇示する他の政令指定都市も同じだ。芸術の質は、数とは比例しない。無秩序な増加はむしろ創造環境に弊害を生み、一部のスタッフや業者を潤すだけだろう。
公演を打つことのハードルが下がりきった結果が、現在のプロデュース公演、ユニット公演の氾濫である。カンパニーに属さない若いフリー俳優の増加とも重なり、公演の重みがますます失われているように感じる。かくして短期間の公演が増え続け、客席を関係者が埋め尽くし、縮小再生産で一般の観客がさらに遠のくという〈負の連鎖〉が繰り返されている。
〈負の連鎖〉を断ち切るには、ロングランしかない。その効用は次のとおり。
- ロングランで公演日数が増えれば、その劇場での公演数が物理的に減る。平均1週間の劇場契約が2週間に延びれば、公演数は半分になる。劇場数は変わらないから、必然的に実力のない集団は淘汰され、劇場で公演出来なくなる。間違えないでもらいたいが、公演と芝居は全く別物である。若い集団は稽古場やキャンパスで経費を抑えた上演会をすればいい。そこで評判になってから、劇場に進出すればいいではないか。インディーズとメジャーを区別するのは、他の表現ジャンルでも自然なことだ。両者が情報誌の同じ欄に並んでいる演劇界のほうがおかしい。
- 実力ある集団にとっても、ロングランは大きな冒険だろう。当然ながら周到な準備が必要だ。年間の公演数を減らすことになるかも知れないが、それでいいではないか。公演数を絞る代わりに全力を注ぎ、時間をかけて完成度を高めればいい。ワークインプログレスで情報発信しながら稽古を続ければ、それ自体が宣伝になる。仮にロングランでクオリティが低ければ、経済的打撃と共に集団の存在価値が問われるだろう。だからこそ必死になって戯曲も練り上げるだろうし、稽古も重ねるはずだ。宣伝も知恵を振り絞り、あらゆる手を使ってチケットを売るはずだ。自らを絶体絶命に追い込むことで、潜在能力が発揮される。課題を抱える集団にとって、ロングランは飛躍のチャンスなのだ。
- 劇場で一定水準の作品がロングランされるのが一般的になれば、メディアの紹介方法も変わるはずだ。縮小される一方の演劇欄も、復活するかも知れない。作品の準備期間が長くなるため、新作でもきちんとあらすじが紹介されるようになるだろうし、宣材のレベルも上がるだろう。観客は豊富な情報から本当に観たいものを選び、安心して劇場へ足を運べばいい。ロングランなら公演の評判を耳にしてからでも入れる可能性が高い。もちろん、若い集団を発掘したいコアな演劇フリークは、劇場以外の上演会へ行けばいい。劇場関係者もインディーズの発掘に努めるだろうから、いままでとなんら変わらない。メジャーを目指して努力することが、結果的に実力アップにつながる。名を捨てて実を取れ。
- ロングランは劇場関係者やスタッフの待遇改善にも寄与する。多くの劇場では、仕込み日は労力がかかる上に本番日より低料金に設定されている。ロングランは時間外労働が抑えられて劇場収入も増える。スタッフにとっても、短期間の公演ではプラン料とオペレーション料の分離が難しく、充分な金額を請求出来ないのが実情だろう。ロングランになればキャリアにふさわしい分業が小劇場演劇でも確立し、ギャランティの保証につながる。短い公演に合わせてスタッフが報酬を値引き、その結果さらに安易な公演を増加させるというスタッフの〈負の連鎖〉を見過ごしてはならない。
インディーズとメジャーを分けることは、劇場に順位をつける「小劇場すごろく」とは違う。劇場を分けるのではなく、集団を差別化したいのだ。演劇は芸術であり、そこには厳しい競争がある。全員がプロフェッショナルになれるわけではなく、一般の観客に推薦出来る集団とそうでない集団の差は歴然としてある。映画なら配給作品と自主上映の区分が明確だが、配給会社の不要な演劇ではその差が明示されない。それを様々な側面から浮かび上がらせる手段がロングランなのだ。
小劇場という概念は、客席のキャパシティで語られるのではなく、そのスタイルで語られるべきだ。すでに中劇場進出を果たしている著名カンパニーでも、作品によっては敢えて小劇場ロングランをしていただきたい。それが本当の贅沢だし、小劇場はそういう空間であってほしい。小劇場がそうした特別な空間であることを再認識するためにも、そこで上演される作品は一定水準を保ってほしい。事前にクオリティを知ることは出来ないが、ロングランという障壁をクリアしようと努力することで、結果的にクオリティが向上する〈正の連鎖〉を私は狙っている。
地域の制作者は、これを東京限定の話と思わないでほしい。旅公演先では難しいだろうが、本拠地なら日本全国どこでも12日間は上演してほしいし、それが出来るはずだ。劇場のキャパは数十名で充分ではないか。肝心なのは、その劇場へ行けば毎晩芝居が観られるということだ。真の傑作が一本あれば、それを毎晩上演することで街の名物になり、最後はその作品を観るために旅行者が立ち寄るような街になれないだろうか。
演劇は、媒体に残らない表現である。どんなに時間や労力をかけようとも、公演が終われば消え去る宿命にある。だからこそ、本当に人々の記憶に残るものを可能な限り長く上演すべきではないのか。週末だけの公演で済ませること自体が、演じる側の自己満足ではないだろうか。あなたも、傑作に携わって千秋楽を迎えるのが惜しいと感じたことがあるはずだ。クチコミで後半の動員が延び、もっと公演期間があればと悔しい思いをしたことがあるはずだ。ロングランの定義はキャリアによって違うだろうが、絶対に後悔しない公演期間を設定してほしい。どんな観客でもスケジュールを合わせられる長さとして、それは12日間(劇場契約2週間)がスタートだと私は思う。