この記事は2002年5月に掲載されたものです。
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制作者に必要なもの、プロデューサーに必要なもの
「プライオリティをつける力」そして「戯曲を読む力」
fringeは「制作者=プロデューサー」を提唱していますので、両者を無理に分けて考える必要はないのですが、制作者をマネジメント、プロデューサーを企画という言葉に置き換えた場合、それぞれのシーンで求められる資質にはおのずと違いが生じます。
私はずばり、マネジメント(制作者)に最も必要なものは「プライオリティをつける力」、企画(プロデューサー)に最も必要なものは「戯曲を読む力」だと考えます。もちろん、調整力やプレゼンテーション能力のように、あるに越したことのない資質は多いと思いますが、マネジメントの場合はそのすべてが「プライオリティをつける力」に収斂すると思いますし、企画の場合は他のすべてを満たしていたとしても「戯曲を読む力」がなければ意味がなく、どんなに資金や人脈があったとしても真のプロデューサーにはなり得ないでしょう。
制作者が信頼感を得るまでの過程
「プライオリティをつける力」とはなにかを説明する前に、そもそも制作者がどうやって信頼感を得るかを説明したいと思います。
信頼感とは、制作者の責任感によって他者に生じる感情です。なにか問題に直面したときでも、この制作者に相談すればなんとか対応してくれる、この制作者なら任せられるという気持ちが信頼感であり、それは制作者の真摯な日常業務の積み重ねの中で培われていくはずです。その意味では制作者が責任感を身に着けるのは容易です。マネジメントを担当しているポジションなのですから、業務を責任もって遂行しなければカンパニーの活動が停滞し、対外的な評価が失墜してしまうことになります。「自分がやらなければ代わりがいない」という環境が、自然と責任感を生み出します。
制作者にとって責任感はあって当然、ないほうがおかしいことになりますが、どうも他者から見て責任感を感じない制作者というのが少なくありません。これは「責任感を持っているだけで、目に見える形で示せていない」という状況ではないかと思います。責任感というのは本人の気持ちの問題ですから、それを具体的行動に移さない限り、他者にはなかなか伝わりません。責任感が薄いと思われる制作者は、その具体的行動がわからないのではないかと思います。
責任感を感じさせない制作者に最も欠けている資質、それが「プライオリティをつける力」です。その時点での物事の優先度を決め、優先度の高いものから対応する能力です。わかりやすい例を挙げますと、打ち合わせに必要な資料を作成していて遅刻する場合です。確かに資料は必要でしょうが、それで遅刻して相手の心象を害したのでは本末転倒もいいところです。資料なしで口頭で説明したほうが、遅刻よりよほど責任感を与えられたはずです。その場に応じた適切な優先度の判断が出来ないことが、結果的にその制作者の評価を下げているように思います。
劇場のオペレーションでも、事前にお手伝いさんを集め、ロビーで綿密なミーティングをしているカンパニーが最近は増えました。しかし、打ち合わせが長すぎて、その間に場外で当日券待ちのお客様の列が出来ているにもかかわらず、一度も様子を見ないでミーティングに没頭している例もあるようです。確かに打ち合わせは重要ですが、一人抜けてお客様の様子を確認し、適切なアナウンスをすることがなぜ出来ないのでしょう。これこそ「プライオリティをつける力」の欠落です。
ナレッジとマニュアルは違う
fringeでは実践的なナレッジやツールの数々を提供していますが、それは決してマニュアルではありません。制作者が活動する上で必要な手順は、そのカンパニーや公演で千差万別のはずであり、自分たちに最適な方法を独自に構築していかねばなりません。fringeはそのための理論や道具を提供しているのであり、マニュアルは自分自身で考えていくべきものなのです。
演劇制作に限らず、一般的にマニュアルと呼ばれるものは手順そのものは詳細に指示してありますが、その行為が必要になる背景は説明されていません。これはなんのためにしているのか、これをしなければどんな影響があるのか、そうした一つ一つのディテールの積み重ねがない手順は、その場だけのもので応用が利きませんし、次へ引き継いでいく説得力がありません。制作者を育てるときに必要なのは、一つ一つの行為の意味を伝えることです。手順ではありません。どうかマニュアル重視の制作者にはならないでください。
演劇は戯曲でほとんど決まる
誤解を恐れずに言うなら、私は演劇は戯曲でほとんど決まると考えています。俳優やスタッフワークは、端的に言えばあとからどうにでもなります。探せば代わりになる才能は必ず見つかるはずです。しかし、戯曲だけは最初から優れた戯曲で出発しない限り、ほかで誰かがどんなに努力しても成功は難しいでしょう。私の経験でも、俳優の欠陥を戯曲が補う例は幾度となく目撃してきましたが、その逆の例は記憶にありません(その俳優の熱烈なファンで、その俳優さえ見ていれば満足というなら話は別ですが)。
俳優はプライドが高いので、どんな戯曲でも出番さえあれば、自分の力で見せ場にする自負を持っています。戯曲がなくても、エチュードで芝居はつくれると信じている俳優も少なくないでしょう。もちろんエチュードで質の高い作品が生まれることもあるでしょうが、それで終わらせるのではなく、作家が構成を加えればさらに作品のレベルは高まったことでしょう。俳優の態度に惑わされて、戯曲の重要性を忘れてはなりません。
プロデューサーには、上演する戯曲を決定するための「戯曲を読む力」が不可欠だと思います。新作なら執筆途中から作家と意見交換し、必要なら改稿を迫る力。既成台本なら上演に値するものを選択する力。キャスティングやスタッフィングはプロデューサーの大きな醍醐味だと思いますが、その前段階の戯曲の開発こそ、本来は力を割くべきでしょう。
ハリウッドでは、シナリオの開発に巨額の費用を投じます。長い年月と幾人ものシナリオライターを起用し、場合によっては100回に及ぶ改稿があるそうです。日本でも、映画やドラマでは数回に及ぶ改稿が当然で、初稿がそのまま決定稿になるのは演劇ぐらいではないでしょうか。ましてや締切に追われ、その初稿すら充分に吟味する期間がなく稽古に突入する現実を見ると、作品の質の向上とは程遠い気がします。
演劇は、実際に劇場に足を運んでみるまでわからない水ものの表現だと言われます。その作品がいいかどうか、一種の賭けでもあるとよく言われます。けれど、果たしてそれは演劇固有の特殊なことなのでしょうか。表現の世界では、どんなジャンルでも自分のセンスと合うかどうかは賭けのはずです。ライブなので事前に内容の情報を得にくいという意味では、ネタバレになってしまう推理小説だって同じはずです。その推理小説を読んで楽しめるかどうかは賭けでしょう。演劇がことさら問題になるのは、作品一本一本の質が玉石混交で、ハズレが決して少なくないために賭けと言われるのではないでしょうか。演劇に必要なのは、作品一本一本の質を高め、賭けと言われない表現ジャンルとしての地位を築くこと、そしてそのためには初稿がそのまま決定稿になる創作環境を改善するしかないのではないでしょうか。
カンパニーでは、作・演出を兼ねる主宰がいる場合がほとんどだと思います。その力関係や作品世界への求心力から、主宰の戯曲にダメを出すのは非常に勇気がいることでしょう。場合によっては、カンパニーにいることが出来なくなってしまうかも知れません。これはカンパニー付きのプロデューサーが抱える大きなジレンマであり、カンパニー制の課題でもあります。しかし、プロデューサーが戯曲の最初の読者になり、感想を述べたり疑問点を指摘する編集者的役割を担うことは充分可能ですし、主宰者の多くがそれを望んでいると私は信じます。演劇を変えていくのは制作者だと、私は本気で考えてます。