この記事は2001年4月に掲載されたものです。
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なぜ制作者が必要か
他ジャンルとの比較
演劇制作のことを全く考えたことがない人に制作者の必要性を説明する場合、私は他ジャンルの作品との比較を話すことにしています。
どんなジャンルであれ、作品をつくるだけでは受け手には届きません。作品を実際に送り届ける作業が必要です。例えばテレビドラマは、シナリオライター、ディレクター、技術スタッフ、俳優たちによって生み出されますが、オンエアされなければただのビデオテープの固まりです。オンエアされるためには、番組枠を決める編成作業があり、スポンサーを見つける営業活動が必要です。視聴者に届いたかどうかは視聴率で判断されますから、事前の番組宣伝も重要になります。
映画の場合は映画館での上映が必要になりますから、作品完成後の作業がさらに大変です。映画館と交渉して配給出来なければ、自主上映しか手段がありません。配給先が見つからず、完成後何年もお蔵入りしてしまうことが映画ではめずらしくありませんが、これではただのフィルムのままでしょう。
集団ではなく、個人作業で作品を生み出すジャンルならどうでしょう。小説や音楽がこれに該当しますが、これも作者だけで作品を読者やリスナーに届けているわけではありません。小説なら本という最終形にして書店で流通させるわけですが、これには装丁・印刷・製本・取次・販売という過程が必要になり、本にするまでは出版社の編集者が担当します。編集者の働きがなければ、小説が世に出ることはないのです。音楽もCDという最終形にするためには、録音・マスタリング・原盤製作・プレス・販売という過程が必要です。レコード会社のディレクターがいなければ、音楽は楽譜に書かれたままなのです。
どんな作品も、そのままでは受け手には届きません。絵画や彫刻のような美術作品でさえ、コレクターや鑑賞者へ届くには、画商やキュレーターの存在が必要です。作品が作品として存在するためには、受け手に届けるためのスタッフが不可欠なのです。
演劇の特殊性
先に説明した他ジャンルの作品は、なにかの記録媒体に保存されたり、作品そのものが実際にあるわけですから、公開されるのが遅れたとしても世の中から消えてしまうわけではありません。また、公開時に正当な評価を得られなくても、あとから記録媒体を通して鑑賞した受け手から再評価される可能性も充分あります。
これに対し、演劇などの舞台芸術は特殊な状況にあります。ライブの舞台を劇場で観てもらうこと自体が作品ですから、記録媒体に残すことは意味がありませんし、たとえビデオ収録したとしても、その再生で客席と同じ感動を味わうのは不可能です。つまり、演劇は公開時に観客が客席にいなければならないという宿命を担っているのです。これは演劇の最大の魅力ですが、逆に演劇の普及を阻んでいる最大の要因でもあります。
記録媒体に残る他ジャンルでさえ、受け手に届ける専門スタッフが欠かせないというのに、観客を絶対に集めなければならない演劇が、なぜ専門スタッフを置くことに関心が薄いのでしょう。商業演劇ではない小劇場演劇だからというのは、私はおかしいと思います。小劇場演劇であれ、観客がいないことには作品が成立しないわけですから、チケットを売って観客を呼ぶ興行という行為に作品内容と同等に関心と努力を払わなければなりません。そして、それを担当するのが制作者なのです。
「公演」と呼べることをしているか
演劇が他のジャンルと異なるもう一つの要因は、比較的少ない資金で公演が打ててしまうために、受け手の定義が非常に歪曲化される傾向があるということです。他のジャンルでしたら、インディーズの場合を除いてアマチュアの作品がそのまま受け手に届けれらることは皆無に近く、プロの専門家による選別があります。それをパスしたものだけが評価に耐え得る作品として世の中に出ることになります。
演劇の場合、その選別が一切ありません。それは演劇の大きな可能性でもありますが、裏を返せば友人知人しかいない客席でも公演が成功したと錯覚してしまう恐ろしさなのです。他ジャンルなら歴然としているアマチュアの「発表会」とプロの「公演」が同列に並んでしまうのが、演劇の可能性でもあり未熟さでもあります。新しい才能の発現には非常に適した環境ですが、これ以上ないモラトリアムのぬるま湯でもあるのです。
作家・演出家・俳優がいないカンパニーが考えられないように、本来なら制作者がいないカンパニーも考えられないはずです。ところが実際には世の中にはそうしたカンパニーが存在し、若い俳優の多くが制作者の役割を理解していない状況があります。それでなんとかなっているとしたら、それはあくまで演劇の特殊性によるものだということを理解し、本当に「公演」と呼ぶに値することをしているかを考えてほしいと思います。
小劇場界での制作者に対する理解はまだまだ低いので、旗揚げ時から専任の制作者を置くのは難しいかも知れません。しかし、ここ数年プロデューサー志向の若い人も増えてきたように感じます。制作者を招く努力を続け、一日も早く専任制作者を置けることを願っています。素晴らしい作品をつくり続ければ、それに共感する制作者は必ず現われるはずです。
実際には、興行面以外にも制作者には様々な業務があります。観客動員だけが目的ではないカンパニーもあるでしょう。しかし、制作者がなぜ必要かと問われた場合、演出家が芸術面、制作者が興行面に責任を負うのがカンパニーのあるべき姿であり、この両輪がカンパニーを支えているのだと私は答えています。この両輪の大きさが極端に違ったり、補助輪が付いていたり、場合によっては一輪車だったり……。短距離は走れても、長距離を安定して走るのが難しい場合も多いでしょう。カンパニーの目指す道によって、車種はママチャリでもマウンテンバイクでも構いません。けれど、両輪が揃っていない自転車は自転車と呼べないだろうと思うのです。