Pocket

カンパニー公演とプロデュース公演については様々な演劇書で比較がなされ、両者の長所短所が検討されてきた。現場にいる制作者にとっては、そうした分析を待つまでもなく、その違いは充分理解していると思う。しかし、その多くが創作過程の比較に費やされ(例えば「カンパニー公演での当て書きと、ワークショップを経たプロデュース公演ではどちらがいいか」など)、プロデュース公演の基本的枠組みについての言及があまりないような気がしてならない。特に小劇場演劇の場合、プロデュース公演といってもカンパニーが運営母体になることが多く、公演の責任や権限が本公演となんら変わらないことも、本質を見えにくくしているような気がする。

プロデュース公演とは、プロデューサーの企画・責任において参加者を集めて上演するシステムである。作家、演出家、役者は初めからそこにいるのではなく、プロデューサーが起用したからこそいるのである。この大前提が忘れられているのではないかと思うことが、日本の演劇界では少なくない。例えば劇評で、戯曲や演技への批判が出たとする。もちろん作家や役者本人の資質の問題は大きいが、それ以前に彼らの才能を信じて起用したプロデューサーに責任はないのか。この点に触れている記事はほとんどない。逆に公演が賞賛される場合も、作家や演出家を誉めるばかりで、プロデューサーへの評価はない。観客も同様だ。例えば「えんげきのぺーじ」の一行レビューでパルコ・プロデュースを評したものは多いが、プロデューサーであるパルコ劇場部に対する意見は数えるほどだ。

責任の所在が曖昧になることは、作品の向上に決してつながらない。本来、あらゆる批判の矢面に立たねばならないプロデューサーの存在が忘れられ、観客や評論家が作家、演出家、役者だけでしか作品を判断しなくなると、プロデューサーは芸術面の使命感を失い、興行面だけを追いかける結果になるかも知れない。アイドルを主演にし、高額なチケット代で大儲けをしている公演があったとしても、それはプロデューサーを正当に評価してこなかった日本の観客や評論家にも原因があるのではないか。もう一度強調しておきたい。プロデュース公演では、作品の選定からプロデューサーが責任を負っている。従って芸術面の最高責任者は演出家ではなくプロデューサーなのだ。私はこれがプロデュース公演の枠組みだと信じているし、今後も主張していきたい。別に威張るつもりはないが、日本の演劇界ではあまりにもプロデューサーが軽視されている。これを改善しない限り、演劇界の改革は不可能だろう。

公演によっては、誰がプロデューサーなのかチラシを見てもわかならい場合がある。特に役者自身が公演を企画した場合に多い。「竹中直人の会」のようにユニット名でわかる場合はよいが、そうでなければ責任を明確にするためにも、きちんとプロデューサーとしてクレジットすべきだと思う。作・演出を載せないチラシはあり得ないのに、プロデューサーを載せないプロデュース公演があるということ自体、私は不思議でならない。企画が始動してしまえば、プロデューサーなどどうでもいいのだろうか。

私自身は、カンパニー公演でも比較的早い時期からプロデューサーを名乗った。それはプロデューサーという言葉を仰々しく扱いすぎる演劇界に強い反感があったからである。いまもそうかも知れないが、10年前の小劇場界では、プロデューサーと名乗るのは大変なことで、よほどの決心をしないと使えない雰囲気があった。それまで私が馴染んでいた放送や広告の世界が、役割を示す言葉として若手でもプロデューサーを名乗っているのに対し、非常に異質な感じがした。プロデューサーは制作者を英語にしただけなのに、納得出来なかった。英語では、ピアノを弾く人は誰でもピアニストだ。別にプロフェッショナルな演奏家だけを指す言葉ではない。同様に、制作者は誰もがプロデューサーである。所属している組織の役職名として決まっているのなら仕方ないが、そうでなければ学生劇団の制作者だってプロデューサーと名乗ればいい。日本の制作者があまりプロデューサーと名乗れないのは、作・演出を兼ねた主宰者が全権を握ってしまうカンパニー制への抵抗かも知れないが、名は体を表わすということもある。ぜひ堂々と使ってほしい。

前回の「OMSプロデュースへの疑問」で、「もっと手の内を明かした形で説明してほしい」と書いたのも、それがプロデュース公演でのプロデューサーの責任を示すことになると感じたからだ。プロデューサーは企画するだけで、あとは作・演出だけが表に出てくるという形は、プロデュース公演の未来のためにも卒業すべきではないか。発言するプロデューサー、雑誌に出るプロデューサーがもっともっと増えてほしい。プロデューサーの役割が周知されることで、劇評の内容や演劇制作の過程にもきっと変化が生まれるはずだ。

「OMSプロデュースへの疑問」を書いたあと、私自身がそのプロデューサーだったらどう対応したかを考えてみた。諸般の事情で演出を土田英生氏に決定し、この作品の長所を最大限に引き出すにはオリジナルキャストで行くべきだということになった段階で、私ならこれは純粋再演だと判断するだろう。ならばOMSプロデュースの理念とは異なってくるので、会社を説得して今回に限りOMSプロデュースの名前を下ろし、MONO主催公演にOMSが特別協賛する形か、OMSの買い取り公演という形に出来ないか奔走したと思う。もちろん、チラシには署名入りで理由を詳細に載せる。プロデューサーと作・演出が互いに実を取るには、この方法が最良ではなかったかと思う。プロデュース公演とプロデューサーにこだわってきた私が考える解決法である。