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バカ企画の重要性

バカ企画とは、単に馬鹿馬鹿しいという意味ではありません。カンパニーによって呼び方は異なると思いますが、通常では考えられない発想の公演やイベントを、似通った名称で呼んでいるところは多いのではないでしょうか。作品自体がアーティスティックでも、無謀に思えるような旅公演を企画したり、普段使わない劇場以外の場所で上演することが、バカ企画だったりします。公演を重ねても動員が伸びないとき、カンパニー内で閉塞感が蔓延しているとき、新たな人材育成を図るときなど、ブレイクスルーとなる行動を総称し、私は愛情を込めて「バカ企画」と呼んでいます。

例えば青年団なら、1991年の「4都市北上ツアー」が最初のバカ企画と言えるでしょう。当時、青年団はこまばアゴラ劇場でしか公演を行なわず、内部ではそれが動員が伸びない理由として指摘されていました。東京で安易に劇場を変えることは、いわゆる〈小劇場すごろく〉に乗る行為として避けてきたのですが、平田オリザ氏自身が経営する個人劇場で公演することは、対外的に趣味的な行為と受け取られかねず、青年団の表現手法に慣れた小劇場フリークだけの閉じた世界だけで消費されることを危惧し、彼らに初めての旅公演を決断させたのです。行き先も大阪や名古屋ではなく、「大世紀末演劇展」*1 で交流のあった東北を選びました。

 私たちが目指していたのは、より大きな普遍性を持った演劇活動だった。そのためには、新しい観客との出会いが必要だった。もう一度、「同時に喋るとよく分かりません」とアンケートに書いてくれるお客さんたちに、私たちは出会わなければならない。そのためには、私たちのことを何も知らない東北の都市はうってつけだった。ここである程度の評価が得られれば、私たちの進化は本物だろうと考えた。

平田オリザ著『地図を創る旅』p.231(白水社、2004年)

不慣れな観客が青年団で最初に抱くであろう「同時に喋るとよく分かりません」という感想。これを失いたくないという思いは、非常に重要です。本来は賛否両論あってしかるべき演出スタイルが、通ぶって当然のごとく受け流す観客だけになってしまうのは、芸術にとって〈ほめ殺し〉に近い行為でしょう。こうして東京での動員が1,000名未満だった青年団が、現地での受け入れ態勢が未整備だった91年に、2週間かけて仙台・盛岡・弘前を回ったのです。『地図を創る旅』でもエピソードが紹介されていますが、移動や宿泊に関して、いまも語り草になるほどの珍道中だったそうです。

このツアーは、劇団員にそれまでにない一体感と演劇をする喜びを与えました。作品的にも青年団の転機となった『ソウル市民』再演と重なり、先に上演した東京での絶賛がツアー先に伝えられました。旅公演の魅力を知った青年団は、今度は2年後の韓国公演を目標に掲げたのです。

バカ企画で中劇場進出前の話題づくり

遊気舎の具体例を挙げましょう。元々奇想天外な企画の多い集団で、私の関わる前から5時間半に及ぶファン感謝イベントなどを行なっていましたが、東京での動員が1,000名未満の時期に本多劇場、紀伊國屋ホールへの進出を計画し、なんとか動員を増やして話題づくりをしなければならない状況に追い込まれたときのバカ企画です。

中劇場に初進出するとき、その劇場自体が持っている観客や、話題性で呼べる観客が一定数見込めます。これを500名程度と見積もり、直前の小劇場公演で2,000名を動員すれば、なんとか公演は成立するだろうと目論んでいました。96年5月の『ダブリンの鐘突きカビ人間』東京公演は1,393名、続く96年11月の『イカつり海賊船』東京公演は私が劇場確保に失敗し、大阪と東京の劇場サイズが合わない公演になってしまい、動員を全く伸ばすことが出来ませんでした。本多劇場は97年8月、紀伊國屋ホールは97年12月に迫っています。ここで起死回生のバカ企画として行なったのが、97年2月の駅前劇場とOFF・OFFシアターの2館同時公演『PARTNER』でした。

この作品は「本格インタラクティブ演劇」と銘打ち、劇中で観客に選択肢を複数提示し、その回答によってストーリーを変えたり、観客が二手に分かれて駅前劇場、OFF・OFFシアターのどちらかで続きのシーンを観る展開でした。つまり、1作品のために2劇場を駆使したのです。同一フロアに隣接して2劇場があるシチュエーションを最大限に活用したもので、当時大きな反響を呼びました。関連する2作品を2劇場で同時上演する企画は、その後様々なカンパニーが挑戦していますが、2劇場を使って1作品を上演する企画は類例を見ません。普通に上演すれば、劇場費・舞台費が2倍かかるわけですから、これは当然でしょう。

遊気舎の場合はイベント公演と割り切り、2劇場を使うこと自体が舞台美術と考えて舞台費を抑え、上演時間を70分にして連日3ステージ行ない、下北沢演劇祭参加作品になることで赤字を防ぎました。この結果、動員は1,935名となり、なんとかその後の中劇場公演につなげることが出来たのです。その後、関西でも神戸アートビレッジセンターと共催で、館内の全施設を使い、「観客がエキストラになった映画を撮影する」というストーリーの参加型公演『エル・ニンジャ対サイボーグドラゴン』『エル・ニンジャ対アマゾネス・キョンシー』を98年と2000年に実施しました。

テイストは全く異なりますが、04年にKAKUTAがゆうえんち浅草花やしきで上演した野外公演『ムーンライトコースター』は、同じ発想の企画だと思います。遊園地内で6本のオムニバスストーリーが同時多発で上演され、観客は自由に散策しながら好きな作品を選ぶ「新感覚参加型演劇」で、好評のためイベント要素を加えて06年に再演されています。KAKUTAが注目を集め、翌年の青山円形劇場、シアタートラム進出を控えた時期のステップアップ企画だったのではないでしょうか。大がかりな野外公演を成功させた一体感は、きっと中劇場進出を後押ししたはずです。

バカ企画がカンパニーの評価を高めた例として、忘れられないのが97年のカムカムミニキーナ『鈴木の大地』です。シアターグリーンで異なる作品を1日1話、24話連続上演するものです。ロングランの集客方法としてユニークで、連続ドラマのように毎日通わせる作戦でした。奇をてらい過ぎかと思っていたら、後半は野田秀樹氏がゲスト出演する日もあり、最後はよくやり遂げたと演劇ファンを喝采させました。これも翌年の東京グローブ座進出を控えたステップアップ企画でした。

いつもと異なることをやれば、それがバカ企画

なにがバカ企画かは、そのカンパニーによるでしょう。舞台美術や音楽で普段と違う冒険をするのも、立派なバカ企画だと思います。遊気舎では、94年に21人編成のオーケストラ生演奏を入れた『交響詩・大森良雄』を上演しました。音楽関連だけで公演費用全体に匹敵する支出でしたが、この生演奏がないと作品が成立しない内容だったため、プロデューサーとして定期預金を解約して支払いました。当時は私の助成金申請も未熟で、期待していた申請が通らず、豪華な舞台とは裏腹に経済的には非常に苦しい公演でしたが、これを契機に劇団員からプロデューサーとして認められるようになったのも事実です。バカ企画は、制作者の覚悟を示す場でもあるのです。

派手な企画でなくても、カンパニーに新風を吹き込むことは出来ます。公演期間中、ベテランと若手の配役を入れ替えた「天地替え」を1ステージだけ上演するのはどうでしょう。話題になるだけでなく、不測の事態に備えたアンダースタディの準備になるかも知れません。ちなみに宝塚歌劇では、本公演で1ステージだけ若手による新人公演が設定され、演出も若手演出家が務めています。普段は主宰の作品しか上演しないカンパニーが、外部の戯曲を使ったり演出家を招けば、それだけでバカ企画と呼べる試みではないでしょうか。観客は驚くかも知れませんが、活動を続けていれば外部の血をどうしても入れたいときがあると思います。

物販で新たなグッズを制作するのもバカ企画だと思います。物販と言えばパンフレット、DVD、台本などが定番ですが、観劇の記念や演劇を身近に感じてもらうため、もっと多様な商品があっていいと思います。美術館のミュージアムショップを見てください。大きな展覧会では、図録だけでなく、お菓子や文房具などのコラボ商品を販売するのが当たり前になっています。コラボ商品がない場合でも、その美術館のロゴ入りグッズは必ずあります。二兎社では佐々木蔵之介氏が主演した『新・明暗』で、02年の初演、04年の再演とも、佐々木氏の実家である京都・佐々木酒造のオリジナル純米吟醸「新・明暗」を販売しました(2004/10/25付トピック既報)。

公演の付帯企画と言えばポストパフォーマンストークが主流ですが、これも別のバカ企画がいくらでもあるのではないでしょうか。例えば、客足の落ちる日曜ソワレの集客対策として、開場を30分早めてプレイベントがあってもいいのではないでしょうか。遊気舎では、本多劇場に初進出した97年『じゃばら』で、日曜ソワレの開演前に公開オークション「遊気舎ハンマープライス」を開催し、俳優手づくりの逸品や「憧れの俳優とお茶できる権」などを観客に競っていただきました。これはエンタテインメント系ならではのイベントだと思いますが、アーティスティック系でも公演本編の前日譚を特別上演する回があっていいと思います。客入れ中から舞台上で演技するカンパニーなら、それをきちんと見せる回があってもいいでしょう。

バカ企画は集客に必ずつながる/つなげる

当然のことですが、バカ企画は目新しいだけが目的ではなく、集客を伴うものでなければなりません。集客出来ない企画は、どんなに優れていても制作者の独りよがりになり、カンパニーを疲弊させてしまいます。逆に優れたバカ企画なら、話題となって必ず集客に貢献するはずです。バカ企画を打っているのに動員が増えないとしたら、それはバカ企画であることがきちんと観客に認知されていないのです。

冒頭に挙げた青年団「4都市北上ツアー」では、東京公演でこれまでアゴラ劇場に足を運ばなかったレビュアーが多数来場し、雑誌の劇評欄で激賞しました。それは青年団が初めて旅公演――それも大都市ではない東北を選んでツアーするほどの自信作だと、レビュアーに伝わったからではないでしょうか。つまり、旅公演という行為自体が自信作の証明になったと思います。いまや旅公演をする小劇場系カンパニーは日常茶飯事ですが、ツアーという行為自体に意味を持たせ、意図的に関心を引こうとしているところは限られると思います。現地の受け入れ態勢も整い、単なる旅公演では話題にすらなりません。これを変える工夫が必要なのです。

「(7)人気の逆輸入――他者の評価で価値に気づかせる」で書いたとおり、92年の遊気舎東京初公演は、人脈がほとんどない状態で443名を集めて満員になりました。最初は地域のカンパニーの登竜門だったタイニイ・アリスでの上演を希望しましたが、それはかなわず、当時田端にあったdie pratze(現・d-倉庫)を借りることになりました。die pratzeと言えば、ストレートプレイの上演はほとんど行なわれず、暗黒舞踏や前衛パフォーマンス中心のイメージでしたが、逆にそれを面白がった人々が演劇マスコミに強力にプッシュしてくれ、無名のカンパニーを雑誌が多数掲載してくれたのです。普通の道を進んでいたら、惨憺たる結果になっていたかも知れません。

困難な状況に追い込まれたときは、それが注目を集めるチャンスだと思って逆に活用してください。舞台芸術の宣伝とは、単に上演作品を宣伝するのではなく、カンパニーが上演する行為そのものの周知だと私は考えています。同時代を生きるカンパニーと、ライブのステージで時空を共有しませんか、というメッセージだと思います。カンパニーの〈生き様〉を伝えるということです。苦しい状況での上演なら、それをストレートに出したほうが、観客の琴線に触れるのではないでしょうか。そうした宣伝も含めて、すべてが〈演劇的行為〉だと私は思っています。

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  1. こまばアゴラ劇場が1988年度~2000年度に開催した、地域を拠点とするカンパニーの演劇祭。「夏のサミット」「冬のサミット」(01年度~10年度)、「こまばアゴラ劇場サマーフェスティバル〈汎-PAN-〉」(11年度~12年度)の前身。 []