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2年先までの公演時期・劇場規模・日数を決める

主宰者やプロデューサーに対する制作講座では、長期計画の重要性が説かれることが多いと思います。カンパニーの3~5年後を見据えて、その時期にどういう存在でありたいかを思い描き、そのためになにをすればいいかを考えます。創作活動はその中心になるものですが、劇団員との具体的な公演スケジュールの共有はどこまで出来ているでしょうか。

完全に趣味と割り切り、地元で週末のみの発表会をやるだけなら、長期計画は必要ないでしょう。けれど、演劇という表現を公演という形で世の中に問いたいと思っているのなら、公演の長期化や地元以外の旅公演も当然視野に入ってくるはずです。カンパニーに人材が集まれば、育成のための若手公演やプロデュース公演なども派生的に生まれていくるでしょう。こうした成長と共に広がっていく公演形態を念頭に置き、それに劇団員が伴走出来るようなスケジュールを予め共有しておくことが、若手から中堅への過渡期では非常に重要だと私は感じます。

若手カンパニーの場合、1年先までのスケジュール共有は出来ていると思いますが、その先が見えていないのではないでしょうか。「どうなるかわからない」「なにをしたらいいかわからない」というのが本音かも知れませんが、成長に比例して公演規模が拡大すると考えると、その先の予定こそが重要です。現在と同じ週末だけの公演を続けていくわけではないのですから、公演の規模感を共有し、それに対応出来る準備をしなければなりません。長期スケジュールはそのために不可欠です。

1年以上先になると、まだ劇場契約には至っていないと思いますが、どの規模の劇場を何日間押さえるかぐらいは考えているでしょう。最低そのレベルでよいので、2年先まで時期・劇場規模・日数を明記したスケジュール表を作成し、劇団員全員とミーティングの場を持ちましょう。「こんな日程は無理」「この劇場でやってみたい」「この演劇祭に参加したらどうか」など、様々な意見が飛び交うはずです。そこで議論を重ねながら、自分たちのカンパニーの歩むべき道を決めていくのです。これは主宰だけと決めるのではなく、劇団員全員と話し合うべきことだと思います。

早期の共有で旅公演を可能にする

若手カンパニーの場合、生計を立てるための仕事を劇団員が別に持っていることがほとんどだと思いますので、公演との両立が重要です。この調整を進めやすくすることも、長期スケジュールを早期に共有する大きな目的です。遊気舎の場合、劇団員に企業の正社員が複数いたため、その両立は常に大きな課題でした。本拠地が大阪のため、東京公演の必要性にも迫られており、長期スケジュールを共有することが必須だったのです。

遊気舎が東京公演を始めたのは1992年からですが、出来るだけ正社員の負担にならないよう、当初の3年間は連休やお盆に合わせた日程としました。地元の公演は仕事を早退したり、交通の便がよければ仕事が終わってら小屋入りすることも不可能ではありませんが、旅公演は完全に拘束されます。そのため、公演に合わせた休暇の調整が不可欠でした。

1992年 4/17(金)~4/19(日) 田端 die pratze 3日間5ステ
1993年 8/12(木)~8/15(日) 下北沢 駅前劇場 4日間7ステ
1994年 5/6(金)~5/8(日) 下北沢 駅前劇場 3日間5ステ
11/3(祝)~11/6(日) 下北沢 駅前劇場 4日間6ステ

最初の92年こそ普通の週末ですが、それ以降はお盆、ゴールデンウィーク、飛び石連休に合わせています。この時期に公演を打つことをカンパニー内で合意形成し、1年以上前から劇場と交渉することで実現したものです。旅公演のため、劇場側が連休を優先してくれたこともあります。

ステージ数に注目してほしいのですが、どの公演とも可能な限りのステージ数にしています。93年はお盆の最中だったため、平日マチネも入れて4日間7ステを組みました。若いカンパニーにとって、この〈必死さ〉が劇場や観客に伝わるのだと思います。地域からの東京公演の中には、土曜を千秋楽にして日曜は公演を打たないケースも見受けられますが、そういうところは〈思い出づくり〉のために公演しているのかと勘ぐりたくなります。旅公演しているのなら、ツアー先で1ステでも多く公演してほしいものです。

業界にもよると思いますが、繁忙期と重なっていなければ、早期に予定を伝えることで、まとまった休暇を取ることは可能でしょう。休暇の予定を周囲に伝えるのは、早ければ早いほど効果があります。その時期に不在であることがわかっていれば、最初から要員にカウントされません。勤務先で理解を得るためにも、長期スケジュールが必要なのです。

中劇場進出のタイミングを図る

もし、あなたのカンパニーが本当に優れているのなら、公演を重ねるごとに評判を呼び、動員は増えていくはずです。そうなると、小劇場のままステージ数を増やすか、中劇場を使用してキャパシティを増やすことが必要になります。そのタイミングがいつ訪れ、そのためには劇場といつ交渉を始めるべきなのか。制作会社と長期マネジメント契約を結べば導いてくれるはずですが、経験のない若いカンパニー付き制作者にとっては、この判断が集客を広げるポイントになります。

中劇場を押さえたり、人気の高い小劇場でロングランしようと思えば、交渉は遅くとも2年前にはスタートしないといけません。もちろん、2年後にいきなり動員が増えるのではなく、今後の公演に伴って増えていくはずで、その間を埋める劇場の押さえ方も重要です。2年後に必要な動員数が2,000名だとすると、現時点では動員1,000名程度でしょう。つまり、動員1,000名の時点でカンパニーの勢いや可能性を感じ取り、今後2年間で動員を倍に出来るよう、劇場契約をしなければいけないということです。

なにもせずに手をこまねいていると、作品がどんなに素晴らしくても客層が広がりません。限られた常連客の目にしか触れないことになります。明らかな客席不足に気づいてからでは、間に合いません。勝負を懸けた作品で確実に客層を広げることが出来なければ、そのカンパニーはそこで停滞してしまうでしょう。的確な劇場契約が出来るかどうかが、カンパニーの成長を決めるのではないでしょうか。

近年は公共ホールの主催公演に若手カンパニーが招聘される機会も増え、戦略的に公演計画を立てなくても中劇場を使えるケースが生まれていますが、それに頼っては制作者の弱体化を招きます。制作者が主体性を持って、長期スケジュールを立てることを忘れないでください。そうでないと、それこそ単なる〈思い出づくり〉で終わってしまうでしょう。

遊気舎は、東京での動員が906名だった95年夏に、97年8月の本多劇場、97年12月の紀伊國屋ホールとの交渉を開始しました。週末だけでは貸してくれない人気劇場ですので、どちらも1週間契約する必要がありました。ステージ数を抑えたとしても、2,500名程度を入れなければならない状況に追い込まれたのです。2年間で動員を2.5倍にしないといけないわけですが、私はこのカンパニーにそれだけの実力があると判断していました。

95年は1月17日に阪神・淡路大震災が発生した年です。遊気舎の劇団員にも自宅が全半壊した者が複数いましたが、予定どおり2月には東京公演、3月には大阪公演を行ないました。このときの精神的な葛藤――なぜ自分たちはこんな状況で演劇を続けているのかについて、劇団員一人一人が向き合い、それでも演劇を選んだ意味は大きかったと思います。この体験をしたからこそ、中劇場に挑戦することを劇団員が支持したのでしょう。正社員を続けていた看板俳優の久保田浩氏が退職を決意したのも、同じ年でした。演劇に懸けようという機運がカンパニー内で高まり、私は2年で動員を2.5倍にする戦略を練り始めたのです。

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