この記事は2001年8月に掲載されたものです。
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主宰と制作者の関係
もっと自然にプロデューサーと名乗ろう
演劇界では、プロデューサーという言葉がなにか非常に重い意味合いを持っているようです。単に制作者を英語にしただけなのに、「私は制作です」と気軽に言えるのに対して、なぜ「私はプロデューサーです」と名乗れないのでしょうか。プロデューサーは単に役割を表わす言葉なのに、なにかそれ以上の使命や責任を負わされているような気がしてなりません。本当に不思議です。
他の業界では、経験の浅い学校出たてのペーペーでも平気でプロデューサーと名乗っていることがめずらしくありません。そうした世界では、プロデューサーという言葉が〈役職〉を表わすものではなく、〈役割〉を表わすからです。私は放送や広告の世界に慣れ親しんでいたため、学生時代からプロデューサーと名乗ることが当たり前でした。それが小劇場の世界に身を置いてみると、それなりの実績と資金力がないとプロデューサーと名乗れないような雰囲気があり、とても違和感を感じました。
おかしいじゃないですか。演劇という創造の世界で本当に能力を問われるのは、作家や演出、そして俳優たちのはずです。プロデューサー自身にいくら能力があっても、作品そのものに魅力がなければどうしようもありません。その意味で、私は作・演出や俳優を名乗ることのほうが、演劇の世界ではよっぽど勇気ある行為だと思います。その作・演出や俳優が小劇場界には無数にいるのですから、プロデューサーだって無数にいて当然なのです。というか、いないとおかしいわけです。
プロデューサーを日本語で「制作」「製作」と表記するのは各自の好みだと思いますが、少なくとも「制作者=プロデューサー」であるという認識は制作者全員に持ってもらいたいのです。経験が浅く、まだ一人前だと思っていない人ならアシスタントプロデューサーでも構いませんが、演劇をプロデュースしているという自覚は必ず持ってほしいと思います。
演劇界には、まだまだ制作者の役割を正しく自覚せず、制作=雑務一般のような認識をする人がいるようです。言葉でそのイメージが変わるのなら、もっと積極的にプロデューサーと名乗りませんか。あなたが新人であっても、制作業務をまだ完全に把握していなくても、そんなことはどうでもいいのです。制作という役割を担っているのなら、経験に関係なくプロデューサーと名乗り、チラシに載せ、名刺に刷りましょう。だって、作・演出は旗揚げ公演のときから作・演出と名乗っているのですよ。経験のない人間が1本目から作・演出を出来てしまう小劇場界のほうが、私にはよっぽど特殊な世界に映ります。
主宰がすべてを判断するわけではない
あなたがカンパニーの専任制作者なら、プロデューサーと名乗ることに全く問題ないはずです。それに違和感を感じる人がいたとしたら、その人は制作者の役割を誤って認識しているのではないでしょうか。制作者は雑務だけをして、判断を伴う仕事をしてはいけないと思っているのではないでしょうか。判断を伴うことは、すべて主宰が決めることと思っているのではないでしょうか。判断することと、組織として最終決定することは違います。どんな役割であれ判断は必要なわけで、それが制作分野のことになると、なぜ制作者を飛び越えて主宰の判断を仰ぐことになってしまうのでしょうか。
これは、芸術面での判断が作・演出に集中するため、それに慣れ切ったメンバー=俳優が制作面も作・演出を兼ねる主宰の判断が必要だと思い込んでしまう〈悪しき錯覚〉です。客観的に見れば、制作面で判断が必要な物事には様々なレベルがあり、制作者が内容に応じて対応方法を決めればいいことです。「うちのカンパニーは主宰がプロデューサーだから、制作は主宰の判断に従わなければならない」と考えているなら、プロデューサーの意味を取り違えていると私は思います。集団のプロデュースと、公演のプロデュースは違います。放送局の社長は、自社のドラマの一つ一つについて判断しているのですか。そんなことは、社員であるプロデューサーに任せているわけでしょう。放送局全体のプロデュースと、番組のプロデュースは違うのです。
内容を吟味せず、判断が必要だからという理由だけで主宰が制作面でも最高責任者のように錯覚してしまう雰囲気。組織としての適切な役割分担やプロデュースの及ぶ範囲を考えず、プロデューサーは主宰だと思い込んでしまう雰囲気。これこそ、主宰・作・演出が一人の人間に集中する小劇場の大きな弊害です。進んだカンパニーではこうした点は改善されていると思いますが、専任制作者を置いている集団さえ限られる現状では、まだまだ意識が低いと言わざるを得ません。
繰り返します。制作者は経験にかかわらずプロデューサーです。舞台に立つ人間を俳優を呼ぶなら、制作を行なう人間は誰でもプロデューサーです。あなたがしていることは、公演をプロデュースしていることなのです。
主宰と対等な関係になろう
多くのカンパニーでは、主宰が作・演出を兼ねています。俳優として演技面でも重要な役割を担う場合もめずらしくありません。まさに主宰は芸術面の中心的存在であり、様々な業務が集中しています。これに加えてカンパニーの初期は人手不足ですので、制作面を主宰が引き受けたり、俳優で分担することになります。これをなんとか軽減したい、芸術面に専念したいというのが専任制作者を置く純粋な理由のはずです。
制作志望者の側も、どのカンパニーでもいいというわけではなく、芸術面で自分の琴線に触れたからこそ応援したいと思うのであり、その意味で最初の方向性に大きなズレはないはずです。主宰のテイストを理解し、それを公演という場に発展させるのが制作者=プロデューサーであり、きちんとした信頼関係が築けるとしたら、これほど主宰にとって頼もしい存在はないはずです。公演において、主宰は作・演出という芸術面を担当し、制作者は制作面を担当する。このどちらも欠かせない両輪で、公演という自転車は走ります。その意味で、主宰と制作者に上下関係はなく、両者はそれぞれ担当する分野に責任を持つ対等な関係、パートナーなのです。
もし問題を抱えているカンパニーがあるとしたら、この関係性が異常になっていないでしょうか。自転車の両輪が同じ大きさではなく、極端な違いが出ていないでしょうか。あるい自転車ではなく、いつの間にか一輪車に戻っていないでしょうか。自転車として自立して走れるはずなのに、誰かが余計な補助輪を付けていないでしょうか。制作者がいるにもかかわらず、いつまでも制作分野に口出しして、制作者のモチベーションを低下させている主宰。すべてを自分が決めないと気がすまない主宰。俳優や部外者に相談ばかりする主宰。逆に主宰べったりで、自分の考えというものがない制作者。作品を溺愛しすぎて、観客の批評に露骨に嫌悪感を示す制作者。意見があるのに言わない制作者……。なんだか、中小企業のワンマン社長(あるいはカリスマ社長)と社員の関係みたいですね。
私が制作者になって、初めて外部のデザイナーにチラシのデザインを依頼したときのことです。私自身、頭の中にはそれなりにビジュアル面のイメージがあり、初回打ち合わせでデザイナーを前に、相当細かなレイアウトまで指示をしたことがあります。そのときデザイナーが私に言ったのは、「そこまで決まっているのなら、僕に依頼する必要ないんじゃないですか」。そのデザイナーにお願いするということは、そのデザイナーのセンスに期待して依頼するということです。その部分にまで口出ししたのでは、デザイナーのセンスは不要ということになり、彼は単なるオペレーターになってしまいます。私は非礼を詫び、自分のイメージを白紙に戻して、改めて一からデザインすることをお願いしました。任せるということがどういうことか、非常に教訓になった思い出です。
制作者は制作面を任されています。任されるというのはどういうことか、任すということはどういうことか、そこにはどんな信頼関係が必要なのか、その信頼関係はどこから生まれるのか。傾いたまま走り続ける自転車もあるでしょう。けれど、それは誰かが無理をしているのではありませんか……。
最近、主宰と二人きりでじっくり話したことがありますか。もしなければ、これを機会にいかがですか。