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学校公演で生計を立てているカンパニーが数多く存在している現状で、このテーマに触れるのは気が重いのだが、演劇の未来を考えた場合に避けて通れない課題だと思うので、今回は私が二十年来考え続けてきた提言をしてみたい。決して大げさではなく、私は学校公演の在り方が、日本で演劇が他の表現ジャンルに比べて非常に縁遠く感じられる精神的な土壌につながっていると思うからだ。

当然のことだが、私たちは最初から演劇を敬遠しているわけではない。それどころか、子供時代は学芸会の配役に一喜一憂し、舞台に立つ快感を覚えたはずだ。いま小劇場のワークショップで行なわれているプログラムが教育現場に取り入れられれば、子供たちの表現力や感受性はもっと磨かれるだろうし、プロフェッショナルが演じる舞台にも生涯興味を抱いてもらえるのではないかと思う。

しかし、子供たちの多くは学校時代に演劇が嫌いになっている。私自身、大学に入るまで演劇は敬遠していた。キャンパスでたまたま観た学内劇団に衝撃を受け、それまでの演劇観が根底から覆ったわけだが、そうした出会いがなければ、いまでも劇場に足を踏み入れることがなかったかも知れない。芝居好きが高じて小劇場演劇に携わるようになってからも、役者やスタッフの中に「以前は演劇が大嫌いだった」という人が多いのに驚いたくらいだ。ずっと演劇部だったという正統派の人を除けば、小劇場界では子供時代から演劇が好きというほうがめずらしいのではないだろうか。つくり手の側でさえこうなのだから、観客側は推して知るべしである。

私たちを演劇嫌いにしたものはなにか。学校公演をしているカンパニーにはたいへん申し訳ないが、私がヒアリングしたところでは、きっかけの多くが「無理やり観せられた学校公演」である。強調しておきたいが、ここでのキーワードは「無理やり」である。学校公演で演じられる作品の中には素晴らしいものもあるだろうし、子供に興味を持たせつつ芸術性をも追求した試みもあるに違いない。だが、どんな作品でも「無理やり」観せられると、プラスよりマイナス面が上回ってしまう危険性がある。例えば読書感想文の課題図書を想像してほしい。自分が書店で見つけて読めば感動する本なのに、課題図書として「無理やり」学校から読むことを強制されると、読書の楽しさが半減されてしまうのではないだろうか。

私の通った小学校では、体育館での映画鑑賞会が多かった。いま振り返ると校長の趣味としか思えないが、なぜか『男はつらいよ』が何作品も上映された。確かに当時の人気作だろうが、いきなり寅さんを観せられて喜ぶ小学生が果たしているだろうか。これがトラウマとなり、私は『男はつらいよ』を観たいと思わなくなったし、申し訳ないが山田洋次監督作品にも触手が伸びない。大人になって自分の意思で『男はつらいよ』を観たとしたら、全く違う印象を持ったかも知れないが、あまりにも出会いが悪すぎたと思う。

あるときは、宗教団体と関連の深い少女民族舞踊団の記録映画を観せられた(当時の教師たちはなにも知らなかったのだろう)。小学生なので全く予備知識なしに観たのだが、単調な内容にあくびを連発してしまい、そのせいで涙が出たところをクラスのいじめっ子に目撃されてしまった。こんな〈おいしい光景〉をいじめっ子が見逃すわけがない。「荻野はこんな映画で感動している」と騒がれ、私の行くところ映画のテーマ曲が口ずさまれるといういじめに遭った。いま書くと笑い話だが、当時は本当につらかった。

幸い、映画自体は以前から友達と「東宝チャンピオンまつり」や「東映まんがまつり」に通っていたので、ジャンル自体を嫌いになることはなかった。そして、自分で新聞広告を見て初めて行ったロードショー『ポセイドン・アドベンチャー』で、洋画の魅力を知ったのである。つまり、小学校での映画鑑賞会は、私にとって苦痛しか与えてくれなかったことになる。こうした経験が積み重なって、私は他人から強制的にさせられることと自発的にやることの違いを強く意識するようになっていった。小学校の行事でも、社会見学や林間学校のように、「無理やり」参加させられることで未知の世界を体験出来るものもある。だが、映画や演劇のような芸術作品の場合、個人の感性が占める部分が非常に大きく、作品を選ぶという重要なステップが省略されてしまうと、その作品が自分の趣味に合わなかった場合に、その表現ジャンル全体への不信感につながってしまう危険性が高いのではないだろうか。

そうならないよう作品内容に配慮していると、学校公演を行なうカンパニーは反論されるかも知れない。だが、「無理やり」観せられた作品に観客全員が満足することは絶対にないし、これはすべての芸術に当てはまることだと思う。学校公演を行なうカンパニーの方々は、自らの子供時代に学校公演で演劇の素晴らしさを体験されたのかも知れないが、それは幸運なケースであって、逆に演劇嫌いを生む土壌になっていることも認識していただきたい。繰り返すが、どんな素晴らしい作品でも、それを「無理やり」観せることは嫌いにさせる原因になってしまうということだ。こうした理由で、私はカンパニーのプロデューサー時代、生徒が強制的に観劇させられる公演はお引き受けしなかった。私だけではなく、同様のポリシーで学校公演をしない有名カンパニーもいくつかあり、その存在に内心励まされたものである。

ここで批判だけをしても、学校公演で食べているカンパニーが多いという現実は変わらない。そこで私は提言したい。私の指摘している問題は「無理やり」という一点に尽きる。だったら「無理やり」をなくせばいい。作品を選ぶという最も期待に胸がふくらむ作業を、生徒自身に任せればいいのではないか。やり方はいろいろある。一つのカンパニーが提示する複数のレパートリーから選んでもいいし、生徒全員の前で複数カンパニーがプレゼンテーションしてもいい。あるいは近隣の学校が歩調を合わせて複数カンパニーを同じ日に招聘し、Aカンパニーが観たい人はB校体育館、Cカンパニーが観たい人はD校講堂という具合に、会場を選ばせればよい。いずれも生徒自身が作品選定に関わっているわけだから、内容が趣味に合わなくても自己責任として納得出来るし、選ばなかった作品への興味がわく。なにより自分が選んだという事実が、「無理やり」感を払拭してくれるはずだ。これを実現するには教師の理解と協力が不可欠だが、まずはカンパニーから提案が出来ないものだろうか。

学校公演の現場を知らない人間がムチャを言っているのかも知れない。けれど、学校公演の功罪を考えた場合、いまのままでいいとは私は決して思わない。子供時代、私たちは演劇が大好きで、誰もが主役の座を狙っていたはずだ。そして、そのまま大人になっていたとしたら、野球少年だった私たちが球場へプロ野球を観に行くように、劇場に普通に足を運ぶのではないだろうか。演劇の未来を考えた提言のつもりである。