Pocket

 観客には知られていないことだが、二〇〇〇年代に入ってから首都圏の若手カンパニーが見せる戦略的な活動は、加納幸和(花組芝居)、平田オリザ(青年団)、安田雅弘(山の手事情社)、宮城聰(ク・ナウカ)によるユニット【P4】が、一九九九年から都内及び利賀・新緑フェスティバルで開いた「若い演劇人のための集中講座」に拠るところが大きい。先鋭的な現代演劇を志向する集団はもちろん、エンタテインメント志向の集団さえも多彩な講師陣を招いた勉強会に足を運び、利賀では夜を徹した議論が繰り返された。演出論や俳優論といった創作に直接関わるテーマから、カンパニーの長期計画や助成金申請といった制作面の課題まで、この講座で初めて知識を得て意見を闘わせた若手演劇人が少なくない。無数の集団が存在しながら、それぞれが無勝手流で活動していた首都圏の小劇場界にとって、この講座は大きな転機となった。【P4】にとっても、自分たちが切り開いた道をより確かな理論武装で続く若手の姿が見えないことに、危機感を抱いての行動だったに違いない。コンテンポラリーダンスが芸術と制作の両面で着実に成果を上げるのを横目に、小劇場演劇の閉塞感を打破するには、活動全体を改めて検証する作業が必要だったのである。九〇年代の関西劇団ブームが鳴りを潜め、新たな表現に挑む若手カンパニーが首都圏に集中する現状を見ると、この講座が果たした役割の大きさを実感する。【P4】が直接指導した三年間の内容はいまでも語り草となり、利賀で培われた人脈は全国の演劇祭ラインナップを動かしている。

 この講座の洗礼を受けた演劇人の中でも、【P4】の遺伝子を最も濃く受け継ぎ、日本の演劇界で前例のないプロジェクトを展開しているのが、Ort-d.d(Ort das dritte)の倉迫康史である。山の手事情社の演出助手を経て、自身のカンパニーを旗揚げ・解散したのちに講座と出会った倉迫は、二〇〇〇年に「現代舞台芸術ユニットOrt」としてリセットすることで、【P4】の演劇論を白紙から実践することが出来た。舞台芸術財団演劇人会議主催の第一回利賀演出家コンクールで鈴木忠志(SCOT/SPAC)から高い評価を受け、〇一年の静岡県舞台芸術センター「Shizuoka春の芸術祭」、〇二年の利賀フェスティバルに招聘されている。他カンパニーとの大規模な合同公演も積極的に進め、そこで知り得たメンバーによるOrt時代の集大成『砂の女』(原作/安部公房)で、〇二年十月に鳥取・山口・北九州を巡演した。Ort旗揚げ当時は東京の小劇場界でも無名の存在だった倉迫が、わずか二年ほどで気鋭の演出家として認知されたことが、意欲的な活動ぶりを証明している。東京での上演を「地域から招聘されるためのショーケース」と考える倉迫は、東京公演に経費をかけたくないとして、安く借りられる喫茶店やギャラリーを会場に選んだ。劇場以外の演劇上演としては、東京では「トリのマーク」(通称)が有名だが、倉迫は既存の建築物を借景に使うだけでなく、舞台美術や照明とのコラボレーションで相乗価値を高める挑戦を忘れない。「Ort単独公演で東京の劇場は使わない」と公言している倉迫の戦略は、以後も貫かれている。

 Ortは〇二年末で活動を停止し、〇三年から現在のOrt-d.dがスタートした。三年間で終了したOrtの内容は、講座で倉迫が立案した長期計画の実行だった。Ort-d.dでは、さらに刮目すべき試みが加わった。実家のある宮崎市に家族を移住させ、東京と宮崎の二拠点制を敷いたのである。人数を抱える組織ならともかく、Ort-d.dは作品ごとにメンバーを集めるプロジェクトである。個人によるプロデュースで二拠点制は耳にしたことがない。東京以外の拠点を持つという意味では、利賀へ移ったSCOTを彷彿させるが、個人であることを考えると異例の試みと言えよう。新体制から一年八か月経過したが、倉迫は飛行機で頻繁に往復し、宮崎では地域のカンパニーを全国へ紹介する動きを続け、東京では以前にも増したペースで公演を打ち続けている。その成果の一つが、前号で安住恭子氏が取り上げた劇団こふく劇場(宮崎県都城市)との合同公演『so bad year』だ。スタイリッシュな演出とスタッフワークは、AAF戯曲賞受賞作品としてプロデュース公演された地元(愛知県)への鮮やかな提示であり、東京国際芸術祭リージョナルシアター・シリーズに十二年ぶりとなるフリンジ参加を認めさせて東京公演を果たした手腕は、プロデューサーとしても舌を巻く。「みんなが気づかないニッチな道を歩んでいるだけ」と倉迫は謙遜するが、そのニッチな道が見えていること自体が【P4】の遺伝子だろう。そしてOrtの単独公演として集大成とも言える完成度を見せたのが、この『四谷怪談』(七月二日、東京国立博物館表慶館)だった。

 鶴屋南北『東海道四谷怪談』などを倉迫が構成・演出したこの作品は、東京国立博物館に建つ重要文化財の表慶館を使った初の演劇公演となった。同博物館では、ク・ナウカが昨秋に東洋館地下で公演しているが、大正天皇御成婚を記念したネオ・バロック形式の表慶館は、それ以上の迫力で観客に歴史を感じさせる。天井まで吹き抜けとなったドーム屋根を見上げる中央ホールに客席が特設され、ホール全体と廊下、ときには二階のギャラリーまでがアクティングエリアになった。重文だけに相当な制約があったはずだが、ホールには階段箪笥や長持などの古道具が山と積まれ、壁から床へ帯を使ったタペストリーが走る。照明も灯体は少ないものの効果的に仕込まれ、過不足を感じさせないスタッフワークとなった。この手の建築物の常として激しい残響が予想されたが、倉迫が「ささやきの演劇」と呼ぶ俳優の声量の可変を駆使した手法で、残響までも見込んだ抑揚が場を支配していた。聞き取りにくさは全く感じず、逆に離れた場所から声や効果音を響かせる工夫が秀逸だった。その場にいない俳優たちが、別の部屋から「おおー」と繰り返し叫び、その声が地の底を這うような残響となってホールに伝わるシーン、足音がさざなみのようにホールに反響するシーンなどは鳥肌が立った。残響という不利な条件を効果的に利用した点は見事であり、作品成功の大きな要因として挙げておきたい。劇場以外での上演では、この問題が常につきまとう。青年団『東京ノート』は美術館を舞台にした作品だが、〇二年の東京都現代美術館ロビー上演では、残響が後方の観客を苦しめた。青年団のような会話劇でこれは致命的で、会場選択の大きな障壁となる。この客席には倉迫もいたそうで、その経験が今回の残響対策に活かされたのだろう。

 『四谷怪談』と言えば怨念に満ちたお岩の幽霊話を連想するが、Ort-d.d版では伊右衛門に近づくお梅をお花とし、その義兄・伊藤喜兵衛による計略としてすべてを描き切った。伊右衛門をそそのかし、直助を欺き、登場人物たちを最後まで弄んでお岩に復讐されるのは、原作では因果応報で前半に斬られる喜兵衛なのである。お岩の義妹・お袖への直助の横恋慕は純愛として描かれているが、二人が契ってはならない実の兄妹だという真相さえも喜兵衛が操る。本来『東海道四谷怪談』は複雑な設定で、歌舞伎で全編上演すると六時間を要するが、倉迫は宅悦の役回りを喜兵衛に、与茂七をお花に当てることで、六名の登場人物による一時間半の尺に収めた。お岩・お袖に伊右衛門・直助が接近する導入部の設定を、道端での短い会話で描いた第二場の手際は目を見張る。『四谷怪談』に必須と思われたお岩への毒も、ここでは喜兵衛の戯言に惑わされた伊右衛門の鉄拳が凶器となる。逆に歌舞伎では端折られることの多い深川三角屋敷の場に時間を割き、流れ着いたお岩の櫛に揺れ動くお袖の心境、仮の夫婦として直助と夕餉を囲むささやかな平安を丁寧に表現した。序破急を心得た構成は倉迫の得意とするところだが、喜兵衛を自由自在に動かし、カットバックや遊び心あふれる演出(一部シーンで会話をフリップで示す、意図的に反復する)で観る者の集中力を全く途切れさせないたくらみは、今回完成形に達したように感じる。倉迫が当日パンフや公式サイトで語るところによれば、お岩・お花という名前は、『古事記』に記された石長姫と木花咲耶姫の物語に通じるという。美貌の木花咲耶姫、醜いが丈夫な姉の石長姫、その二人をめとってこそ永遠の寿命が約束されたものを、石長姫の外見に恐れをなした邇邇芸命ニニギノミコトが親元に帰してしまい、それ以降は短命になったという天孫の寿命の件である。支配階級への呪詛が顕在化したと言われる神話が、『四谷怪談』の根底にも流れていると倉迫は考え、『四谷怪談』は東京の『古事記』であると結論づけている。宣伝物のキャッチコピー「江戸のファム・ファタールが天皇家のネオ・ゴシックに立つ」は、いまなお受け継がれる二つのゴシックホラーに対する倉迫の決意を表わしている。

 最終場、人々を翻弄した喜兵衛は幽霊となったお岩の手助けでお花に刺される。喜兵衛の子を孕んでいたお花は生かされ、化け物の子を育てていかねばならない。それは江戸という歴史の子であり、現代の客席で作品に接する観客全員のことでもある。ラストシーン、「ややこよ、お前は江戸の子じゃ」というお花の言葉は、表慶館で『四谷怪談』を目撃した観客へ壮大な都市創世を語りかけてくる。多くの観客が予想したであろう、表慶館に潜む「お岩様」は鮮やかに否定され、そこには血塗られても生き続けなければならない、前向きと言っていい人間の姿があった。「お岩様」が、幽霊から歴史を開くファム・ファタール(宿命の女)に昇華した瞬間だった。誰もが知る『四谷怪談』のエッセンスを活かしながら、倉迫は二十一世紀の新しい物語を紡いだのである。過酷な条件下で「ささやきの演劇」を具象化した俳優たちの仕事も特筆したいが、中でも名実共に「喜兵衛の物語」とした三村聡、繊細な直助を巧みに現出させた山田宏平は際立っていた。どちらも山の手事情社の中心的俳優で、倉迫と共に現代演劇の先端を歩んでいる。場の形成をコンセプトに掲げるOrt-d.dにとって『四谷怪談』は大きな到達点であり、【P4】さえも未踏の地を進んでいる。倉迫の名を人々が広く知るようになったとき、間違いなく『四谷怪談』は代表作として語られる作品だと確信した。小劇場の明日を見せてくれる作品が、ここにはあった。

国際演劇評論家協会(AICT)日本センター編『シアターアーツ』20号(2004秋号)(晩成書房、2004年)掲載