この記事は2014年12月に掲載されたものです。
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1990年前後のプロジェクト・ナビは、傑作が何本でも続くのではないかと思えた

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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fringe[ナレッジ]の連載「カンパニーを進化させ集客へと導く具体的な方法/(8)作品には出来・不出来があることを自覚し、潮目を読んで勝負する」で、「どんなカンパニーも傑作が3本続くことはまずありません」と書いた。

どんなに優れた劇作家・演出家であっても、同じ人物が戯曲と演出を続けていれば、どうしても作風は似通ってくる。もちろん一定のクオリティには仕上げてくるだろうが、連続して3本観ていると初見の感動は薄れ、毎回が傑作とは言えなくなってくる。一作ごとに新境地を開き、それまでにない挑戦を仕掛けてくる劇作家・演出家はそうはいない。ベテランになるほどそうだろう。なぜなら、作風を変えるということは、それまでに培った評価を失うことになりかねないからだ。観客はそのカンパニーの作品世界が好きで来ているわけなので、観客までをも失う可能性がある。そんなリスキーなことは、普通はしない。

創作活動の節目で、敢えて思い切った作風の転換を行なった劇作家・演出家はめずらしくないが、一作ごとに全く異なる作品世界を見せたのが、1990年前後のプロジェクト・ナビである。北村想氏が主宰した名古屋のカンパニーで、79年旗揚げのTPO師☆団が前身だ。その後82年に彗星’86に改名、86年に再度プロジェクト・ナビに改名した。北村氏はTPO師☆団時代に発表した『寿歌』で岸田戯曲賞候補、彗星’86時代に『十一人の少年』で第28回岸田戯曲賞を受賞している。

若くして評価を得た北村氏だが、まるでそれが定着するのを嫌うかのように劇団名を変え、当時は作風を毎回変えながら多作ぶりを見せていた。私は大阪在住だったので関西公演に足を運んでいたが、関西で89年~91年に上演された5本の衝撃はいまも忘れられない。

1989年 4月 『PICK POCKET あの人の十九の春』(近鉄小劇場)
1990年 1月 『エリゼのために』(近鉄アート館)
1990年 5月 『屋上のひと』(AI・HALL)
1990年12月 『想稿・銀河鉄道の夜 リヴィジョン』(AI・HALL)
1991年 5月 『私はミチル』(AI・HALL)

厳密に言うと、『屋上のひと』『私はミチル』は同一路線、『想稿・銀河鉄道の夜 リヴィジョン』は新作ではなく改訂再演になるが、短期間でこれほど変化の激しいラインナップはめずらしい。敢えて形容すると、私小説→新劇→実験作→ウェルメイド→超実験作だろうか。ナビを見始めた私にとっては、なにもかもが目新しく、実にスリリングな5本だった。次回作の関西公演があるか心配になり、『私はミチル』のときはナビの事務所に電話まで掛けている。こんなことをしたのは、後にも先にもナビだけである。

もちろん、演劇の評価はすべて主観的なものであり、以前から北村想作品を観慣れている観客のあいだでは賛否両論もあったが、『屋上のひと』はナビの作品世界を一度全部壊した上での実験作で、一定の評価を得たカンパニーが敢えて冒険をしたこと自体に、小劇場ファンは心を鷲掴みにされた。ナビを代表する女優と言えば佳梯かこ氏だが、『屋上のひと』『想稿・銀河鉄道の夜 リヴィジョン』で圧倒的な存在感を見せた田辺文美氏は、いまも語り草になっている。

残念ながら、どんなに作品が優れていても、それだけで観客動員が増えるとは限らない。インターネットがない時代はカンパニーのコンセプトも正確に伝わらず、急激な作風の変化についていけない観客もいただろう。これほど幅広い表現力を持ったカンパニーが、東京公演は最後まで満員にならなかったと聞く。もし、90年前後の絶頂期に本拠地を東京に移し、優秀な制作者が付いていたら、ナビはマスコミの寵児になっていたのではないだろうか。

1990年初日通信大賞では、北村氏が『屋上のひと』を含む一連の戯曲で戯曲賞を受賞した。次点は同じ年に『彦馬がゆく』『12人の優しい日本人』を発表した三谷幸喜氏だった。三谷氏の両作品は東京サンシャインボーイズの代表作と言えるもので、それを抑えての受賞はいかに高評価だったかを物語っている。

「どんなカンパニーも傑作が3本続くことはまずありません」と書いたとき、数少ない例外として私の脳裏をよぎったのが、90年前後のプロジェクト・ナビだった。