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 演劇は、いつでも奇跡の上に成り立っている。それは演じる側の奇跡でもあり、同じ空間を共有する観客の奇跡でもある。無数の事情と偶然が二度とない舞台を現出させ、限られた人々の記憶だけに痕跡を残して潔く消えていく。それがライブという表現を選んだ美学であり、その瞬間に立ち会えることが演劇の至福だと思う。

 情報誌のスケジュール欄を埋め尽くす作品群が、何事もなく消化される日常に慣れてしまった私たちは、いつの間にか演劇が奇跡ではなく、組み上げられたシステムになっていると錯覚していたかも知れない。自然の力でそんなものは簡単に壊れてしまうということを、今回の大震災ははっきり示した。演劇がいかに脆弱な基盤の上に存在し、公演に出会えることがいかに素晴らしいかを、改めて実感したのである。

 私は劇団の制作者も務めているが、1月17日は公演を目前に控え、稽古の佳境を迎えた時期だった。出来る限りの連絡を試みたが、阪神地区在住の劇団員たちが安否不明となり、公演中止も覚悟して夜を迎えたのを覚えている。幸い怪我人はなく、自宅全壊を数名出しただけで公演を強行出来たが、劇団にとっては未曾有の試練だった。劇場関係者やスタッフといった直接関係する人々だけでなく、観客一人一人の生活があって初めて公演が成立するものだということを、このときほど感じたことはない。今回はたまたま大阪の被害が軽微で、関西全体の演劇文化の衰退には至らなかったが、毎日の舞台がどれだけの奇跡の上に成立しているかは、すべての演劇人が思いを巡らせたことではないだろうか。

 劇団にとっては、公演を打つことこそが存在証明になる。それぞれの集団が、自分たちの置かれた逆境の中、最善の方法を模索しながら公演活動を続けた。それはルーティンになっていた演劇制作で薄れかけていた人間関係を、再確認する作業にほかならなかったと思う。表現レベルの葛藤とは違った次元で、ライブの持つ意味、舞台で表現することの意味を関西の演劇人はつかんだのではないか。どのような作品世界を持つ集団であれ、それが今後の活動に必ず反映されるものと期待している。

 そんな演劇の意味を理解せず、震災後しばらくは歌舞音曲の類を自粛するような風潮があったことは非常に残念である。もし選抜高校野球が会場変更になっていたら、この風潮はもっと長引いていたかも知れない。世の中が暗いときにこそ、人々を勇気づけるものが必要なのではないか。一冊の本に救われることがあるように、演劇も直接心に語りかけるものだ。それが機材を使って臨場感を高めるがゆえに、未経験者には派手に映るだけのことだろう。外見だけで物事を判断する一部の偏見に、躊躇しないでもらいたい。仮設住宅から熱心に劇場に通ってくる演劇ファンを、私は何人も知っている。

 今回の大震災では、被災地で慰問公演を行なうかどうかの議論もなされた。これはその劇団の持つ作品世界によって全く事情が異なるもので、例えば小劇場演劇をそのまま公園で上演しても仕方がない。中には被害の少ない大阪の小劇場の無関心を批判する声もあったが、小劇場は自分たちの本公演を粛々と進めることで存在を示し、大震災で得た思いを戯曲に取り込むことで、表現に昇華していこうとしていた。いち早く児童演劇で被災地を励ました新劇の取り組みには敬意を表するが、それをしないからということで小劇場を批判することは筋違いだろう。演劇という大きな枠組みの中で、それぞれの集団がそれぞれの立場で出来ることを懸命に考えて実施したはずだ。演劇の持つ多様性をもっと多くの人々に理解してもらいたい。

 あの日から半年が過ぎ、被災地は平穏を取り戻しているかのように見える。だが、復興のための経済的負担は、演劇関係者にも観客にも重くのしかかっている。これから何年にもわたって、この状況は続くと思われる。演劇には厳しい時代になるかも知れないが、苦難の中から新しい表現をぜひ生み出してほしい。総合芸術であり、多くの共同作業の産物である演劇だからこそ、被災地で観られる意義は大きいと思う。それが、いつにも増した奇跡と出会える瞬間になることを期待する。

 ――人は誰でも必ず死ぬ。普段は意識の片隅に追いやっている事実を、こうした大災害のあとでは否応なしに実感させられる。生死の境など、本当に偶然のようなものだ。生き残った私たちは、改めて有限な時間の意味を知る。ギリギリのところで表現に参加している演劇人たちも同じ思いだろう。阪神大震災の哀しみは、関西演劇界の意識の下に、いつまでも刻み込まれるに違いない。

 犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りする。

(1995年7月28日)

国際演劇評論家協会(AICT)日本センター関西支部編『阪神大震災は演劇を変えるか』(晩成書房、1995年)所収

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