カテゴリー別アーカイブ: フリンジのリフジン

小劇場演劇(小劇場)の定義を再確認、「小劇団」なんて言葉はない

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最近、「小劇団」という言葉をよく耳にするようになった。昔からこういう言い方をする人はいたが、あまりに増えると市民権を得てしまいそうなので、ここでダメ出しをしておきたい。なにが小さいのか不明だが、劇場のキャパシティや興行規模に関わらず、劇団は劇団だろう。大小などを付けるべきではない。

「小劇場演劇の劇団」を略しているつもりなら、それも違う。小劇場演劇(小劇場)は演劇のスタイルを示す言葉で、規模を表わしているのではない。「小劇団」などと言うと、意味がわからなくなってしまう。演劇人が自らを矮小化して口にするケースもあるようで、言葉の意味をよく考えて使ってほしい。

小劇場演劇(小劇場)はなにか言えば、fringeでは「このサイトについて」で次のように説明している。

小劇場演劇(小劇場)は、小さな劇場を意味する言葉ではありません。俳優中心に結成された新劇に対し、演出家中心に組織された集団であること。団体客に依存する商業演劇や、演劇鑑賞団体と不可分の新劇と異なり、個人客をベースにした手打ち興行であること。つまり劇場の大小ではなく、カンパニーという小さな組織で、演劇を個人で楽しむライフスタイルを体現したものが小劇場だと私は考えています。小劇場という言葉は決してマイナーを意味するのではなく、夢の詰まった演劇本来の姿だと感じます。小劇場からスタートしたカンパニーは、大劇場で公演するようになっても小劇場演劇なのです。

芸術面では演出家の存在、興行面では個人客中心であること――これが守られている限り、劇場が大きくなっても小劇場演劇(小劇場)だと私は思う。この定義は私自身が長年かけて熟成させてきたもので、共感していただける方は多いと信じている。マイナー感が漂うので、小劇場演劇(小劇場)という言葉を使いたくないという若い演劇人もいるようだが、それは全くの誤りである。

大劇場で上演しているのに小劇場というのは一般客が混乱するので、そこで敢えて小劇場という言葉は使わなくてもいいと思うが、「小劇場から大劇場へ進出」「小劇場を卒業」のように、キャパや興行規模だけで語るような使い方はやめてほしい。影響力のあるマスコミは特に注意すべきだろう。

私は、これからもプライドを持って小劇場演劇(小劇場)という言葉を使っていきたい。

(参考)
小劇場の定義

制作者の必読書『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』文庫化

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制作者の必読書『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』が文庫化された。まだ読んでいない人がいたら、いますぐ読んでほしい。この本を読まない人が、動員やサービスについて語る資格はないと思う。

(参考)
「世界一の映画館」に学べ

幻の利賀フェスティバル観劇ツアー

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私が利賀フェスティバルに初めて訪れたのは、1990年のことだ。「世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う。」をスローガンにした初代・利賀フェスが始まって9年が経過していたが、私が住んでいた関西から足を運ぶ演劇ファンはまだ少数で、知る人ぞ知る国際演劇祭といった趣だった。首都圏からのファンが圧倒的だったと思う。

関西きっての小劇場ファンを自認していた私は、利賀フェスにぜひ行かなければと思っていたが、周囲に同行してれくれる人もなく、民宿に一人で泊まるのもどうかと思われ、考えたのが関西発のバスツアーを仕立てることだった。関西からの団体ツアーは当時聞いたことがなく、チラシを劇場に折り込めば、私のような踏ん切りがつかない個人客を取り込めるのではないかと思ったのだ。

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『星野リゾートの事件簿 なぜ、お客様はもう一度来てくれたのか?』

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最近読んだサービス関係のビジネス書で、いちばん印象に残ったのがこれ。

マスコミで取り上げられることも多い星野リゾートの運営を、様々なスタッフの立場から描いたもので、『日経ベンチャー』(現『日経トップリーダー』、日経BP社)の連載をまとめたものだ。星野佳路社長はほとんど登場せず、たまに会議に参加したり、メールでアドバイスする程度である。現場のスタッフたちが、すべて自分で考え、自分で行動している。

顧客満足度をいかに上げるかという難問に対し、スタッフたちの悪戦苦闘が続くわけだが、中でも最初に収められているアルファリゾート・トマム索道部門のエピソードには感動する。スキー場のリフトやゴンドラを管理運営する索道部門が、それまでの業務と全く異なる「雲海テラス」を始めるまでを綴ったもので、ゴンドラ整備で接客経験のなかった男たちがカフェ研修を積む有様は、胸が熱くなる。

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京都国際舞台芸術祭2010実行委員会事務局はインターンにどんな指導をしているのだろう

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掲示板などに無差別に募集告知を書き込む行為については、以前「近松賞募集のマルチポストに思う」で尼崎市ちかまつ・文化振興課について書いた。ネットでの告知については、手軽で費用もかからない反面、やり方を間違えると相手の心象を損ない、告知内容そのもののイメージダウンになってしまう。それだけに担当者のリテラシーが問われるところだが、最近びっくりする事例を見た。

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札幌市の市民評価(事業仕分け)パブリックコメントが本日締切

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札幌市が、6月に行なった市民評価(事業仕分け)に対するパブリックコメントを募集している。本日8月16日が締切で、演劇に直接関係するものでは舞台芸術創作活動支援事業費補助金ターミナルプラザことにPATOS、文化活動練習会場学校開放事業費が対象となっている。

この事業仕分けは分野ごとに学識経験者2名と市民4名が仕分け人を務めるもので、1事業あたり約45分で公開実施された。発言がそのまま議事録になっており、仕分け人がどんな印象や疑問を持っているか、行政(札幌市観光文化局文化部)がどんな考えを持っているかが非常によくわかる。他都市の演劇人も必見の内容だ。

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「図書館法や博物館法があるから劇場法(仮称)を」という例えはやめるべき

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早ければ今秋にも劇場法(仮称)が国会提出されると言われていた、その今秋が近づいている。本当に提出されるとしたら、私は時期尚早だと思う。

私自身は劇場法(仮称)が目指している考え方自体には賛成だが、それが演劇以外の舞台芸術分野や観客の合意形成に至っているとはまだ思えないし、劇場法(仮称)推進派が先例としてきた博物館法の対象となっている美術館がこのままでいいのかは、考えれば考えるほど疑問に感じる。

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あなたは「札幌ハプニング」を知っているか

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札幌で活動する街頭演劇パフォーマンス集団「札幌ハプニング」。地元では有名な存在だが、全国的にはあまり知られていないようなので、改めて紹介しておきたい。

札幌ハプニングは、札幌市教育文化会館が毎年8月に開催する「教文演劇フェスティバル」に集まった演劇人たちから生まれた企画で、2009年1月にスタートした。有志による企画だが、同会館事業課勤務の山下智博氏がディレクターを務め、同会館と協働する形になっている。演出は弦巻啓太氏(弦巻楽団主宰)が手掛けている。

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任意団体はいまこそ非営利法人格取得を真剣に考えるべき

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劇場法(仮称)を含めた新しい文化政策に対しては様々な意見が出ているが、支援制度を従来の赤字補填方式から、黒字を認めた事業そのものへの助成にシフトすることについては、反対する演劇人は誰もいないのではないかと思う。赤字を前提とした予算組みでは芸術団体の運営が不可能なわけで、これまでの助成制度は根底から覆ることになる。

芸術団体も喜んでばかりはいられない。黒字の事業にも助成されるとなると、年間収支がディスクロージャーされなければならない。そうでないと、公的資金による助成を受ける資格はないだろう。そのためには任意団体ではなく、法人格を取得して社会的責任を明確にすることが重要になる。任意団体でも正確な収支報告は不可能ではないが、契約行為が代表者の個人名義になり、代表者と団体の財産が曖昧になって、継続的な活動をする上で弊害が必ず生じてくる。

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魂を揺さぶられる追悼文

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ヘッドラインに岡本芳一氏とつかこうへい氏の訃報を掲載する日が来るとは、思ってもみなかった。お二人とも62歳で、一回り以上年上の蜷川幸雄氏の活躍を思うと、まだまだこれからだったのにと感じてしまう。ご冥福をお祈りする。

お二人への追悼文はネットでも多数目にするが、岡本氏に向けたものでは風琴工房の詩森ろばさんが書かれた「七夕の宵、どんどろ頌」、つか氏に向けたものでは観客のpeatさんが書かれた「つかさんのこと」に、魂を揺さぶられる思いがした。前者は故人と接点のある立場から、後者は純粋な観客の立場から語られるオマージュだ。

人の死について語るということは、遺された者がどう生きていくかの決意を語ることにほかならない。その思いが強いほど、故人は私たちの心の中で生き続ける。ネットをやっていて本当によかったと思えるのが、こういう文章に出会えたときだ。

マスコミに載った追悼文では、『週刊SPA!』7月27日号の連載に鴻上尚史氏が書いた「僕が、つかさんの作品から感じた悲鳴にも似た感情」が話題を呼んでいる。『熱海殺人事件』に対する独自の解釈を書いたものだ。一読の価値があると思う。