この記事は2010年9月に掲載されたものです。
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幻の利賀フェスティバル観劇ツアー

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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私が利賀フェスティバルに初めて訪れたのは、1990年のことだ。「世界は日本だけではない、日本は東京だけではない、この利賀村で世界に出会う。」をスローガンにした初代・利賀フェスが始まって9年が経過していたが、私が住んでいた関西から足を運ぶ演劇ファンはまだ少数で、知る人ぞ知る国際演劇祭といった趣だった。首都圏からのファンが圧倒的だったと思う。

関西きっての小劇場ファンを自認していた私は、利賀フェスにぜひ行かなければと思っていたが、周囲に同行してれくれる人もなく、民宿に一人で泊まるのもどうかと思われ、考えたのが関西発のバスツアーを仕立てることだった。関西からの団体ツアーは当時聞いたことがなく、チラシを劇場に折り込めば、私のような踏ん切りがつかない個人客を取り込めるのではないかと思ったのだ。

JTBに就職した後輩に話を持ちかけ、企画してもらったのが「国際演劇祭利賀フェスティバル’90観劇ツアー」。主催の国際舞台芸術研究所(舞台芸術財団演劇人会議の前身)に話を通し、協力を取り付けた。90年8月2日~5日の3泊4日で、うち1泊は復路の車中泊。当時は野外劇場と利賀山房のソワレしかなく、観劇は1日1本となり、前半のプロデュース公演『ニッポン・ウォーズ(英語版)』(作・演出/川村毅)、SCOT『ディオニュソス(野外版)』、シアターX『プア・フォークス・プレジャー』を選んだ。

『ニッポン・ウォーズ(英語版)』は、若手演劇人が外国人俳優中心に自作を上演する日本初の試みで、当時絶頂だった第三エロチカのファンなら飛びつくと思った。SCOTは同じ年にオープンした水戸芸術館ACM劇場の柿落とし最新作、シアターXは米国・ミルウォーキーの老舗社会派カンパニーの初来日。いま見返しても、なかなか豪華なラインナップだと思う。

宿泊は1日目が地元の民宿、2日目は2時間半かかる岐阜県荘川村のホテルになった。いまは合併で高山市になっているホテルヴィラージュ荘川高原だ。なぜこんな遠いところを思ったが、ツアー料金を抑えるため、JTBも大人の交渉をいろいろしたのだろう。

バスの発着点は大阪駅だが、途中で名古屋駅に立ち寄るようにし、東京・名古屋方面からも参加出来るようにした。料金は朝食1回、昼食2回、夕食1回込みで38,000円、これにチケット代3,000円×3作品を足して計47,000円となった。現地に残って観続ける人のために、復路のバスを放棄して現地解散もありなど、パッケージツアーとしてはめずらしい条件も記載された。後輩自らが添乗員を務め、私もこれに参加して初めての利賀を満喫しようと考えた。

最少催行人員は40名。かなり強気な数字だと思うが、当時はネットなどなく、移動・宿泊・チケットの手配を全部自力でしなければならなかった。それ以前に情報も乏しく、利賀に行きたくてもどうすればいいか、関西ではわからなかったのが実情だ。需要はあると思われたし、採算を考えるとこれぐらいの人数は欲しいということになった。

チラシは費用を抑えることに加え、スタイリッシュな雰囲気も意図して2色刷りでデザイン。旅行チラシは当時からA4だったため、B5中心のチラシ束でよく目立ち、私も後輩も手応えを感じていた。チラシの印刷費は『an』を発行していた学生援護会が協賛し、デザインは『an』編集部にいた黒田武志氏が担当。当時の『an』は特集ページで関西随一の演劇情報を掲載し、編集部は演劇ライターや演劇ファンのたまり場になっていたのだ。情報量の多い裏面の処理(当時は写植)に感心した私は、後年遊気舎の宣伝美術を黒田氏にお願いすることになる。

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チラシは関西の小劇場中心に配布したが、募集締切の5月末までに参加者が数名しか集まらず、最少催行人員に達せずに中止となった。元々、事前にまとまった参加者が見込めることが条件だったので、リスクを冒して間際まで募集を続けず、早々と中止という判断になった。その後、利賀フェス自体の日程も大きく変わることになり、8月2日は休演日になり、当初の日程ではSCOTが観られないことになった。利賀に行ってSCOTを観られないのはあり得ない話で、もしツアーがそのまま実施されることになったら、日程調整で相当面倒なことになっていたと思う。不幸中の幸いだったかも知れない。

いま振り返るとツアーの計画、プロモーションの方法すべてが甘く、協力した私自身も世間知らずの若造だったと思う。この金額なら商業演劇のファンも取り込み、もっと異なるアプローチが必要だった。ただ、当時は関西小劇場界で利賀フェスが話題に上ることは皆無に近く、そこに訴えかけたいという気持ちがあった。関西で利賀フェスに関心が集まるのは、桃園会が参加し、【P4】が「若い演劇人のための集中講座」を開いた99年の「利賀・新緑(はるの)フェスティバル」からと記憶している。この年の新緑フェスは平田オリザ氏がフェスティバルディレクターを務め、利賀を身近なものにした。

結局、私はJRで利賀を訪れることになり、民宿に連泊して地元の強烈な洗礼を受けた。多くの演劇ファンと夜を徹して語り合い、利賀の〈本当の過ごし方〉を身をもって知ったのだった。入社3年目で企画をダメにした後輩のことが心配だったが、当時はまだバブルだったため、特に厳しいペナルティもなく、頭を下げることで済んだらしい。