この記事は2016年7月に掲載されたものです。
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宮崎県立芸術劇場は『三文オペラ』上演を宣言する前にもっと検証すべきことがあるのではないか、なぜ「演劇ディレクター」と情報共有しなかったのか

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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宮崎県立芸術劇場『三文オペラ』

公益財団法人宮崎県立芸術劇場が企画制作する「演劇・時空の旅」シリーズ#8『三文オペラ』(作/ベルトルト・ブレヒト、演出/永山智行)が初日開場後に公演中止した問題について、株式会社酒井著作権事務所(旧・オリオン)に質問状を送っていた劇場側が、その後の方針を6月19日に公表した。「近い将来、改めて『三文オペラ』を上演する」と宣言している。

ディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)ホームページ「演劇・時空の旅シリーズ#8 『三文オペラ』公演中止後の対応について」

本件の著作権については、同分野の第一人者である福井健策弁護士が、早い段階から日本ではパブリックドメインになっていると指摘し、日本劇作家協会会報「ト書き」の連載コラムや、所属する骨董通り法律事務所のコラムでも事例として紹介している。

骨董通り法律事務所/コラム「改めて、パブリックドメイン論。『三文オペラ』上演中止問題を契機に」

私も『三文オペラ』は日本ではパブリックドメインなので、著作権、そして著作権に含まれる上演権は消滅していると考える。あとは著作者人格権、楽譜のレンタル契約上の問題があるが、これについては発覚した段階から方針を決めて対応していればクリア出来たはずで(そうでなければ、これまで日本で様々な『三文オペラ』が上演されてきた事実をどう説明するのか)、劇場側の進め方にまずさを感じる。

酒井著作権事務所を悪の権化のように書いている人もいるが、同事務所は日本を代表する著作権事務所で、海外作品だけでなく、川上弘美、三島由紀夫、宮本輝、村上春樹、村上龍などの作品も管理している。外部作品を扱った制作者なら一度はお世話になっているはずで、私自身もきちんと対応していただいた記憶がある。また、代理人としての立場上、質問をされた場合は公式な回答をしなければならないはずで、

というのは全くそのとおりだと思う。それぞれの立場がある中で、どうやって公演を成立させるかという交渉術があるはずで、そういうことが出来る人材が同劇場にはいなかったのだろう。それに尽きるのではないか。

以上が権利関係についてだが、ここからが本題。この問題は権利関係とは別に、劇場側の対応そのものに重大な瑕疵があると思う。

劇場側が3月5日に公開した酒井著作権事務所宛の質問状では、「私どもの権利関係の知識や契約事務の未熟であったことは反省しております」と記しているが、たとえそうであったとしても、次の3点に納得出来る説明がなされていない。

  1. なぜ、企画段階で楽曲を改変した『三文オペラ』を上演出来ると考えたのか
  2. なぜ、開演直前に公演中止を発表したのか
  3. なぜ、公演中止後に1時間のライブパフォーマンスを行なったのか

1は現代風にアレンジした楽曲を使用することが本企画の目玉だったはずで、それをクリアしなければ企画として成立しない。結果的にそれが楽譜のレンタル契約に違反するため公演中止になったわけだが、どう考えても対応の順番がおかしい。逆に言えば、企画段階で楽曲のアレンジは可能だと主張した人がいたはずで、なぜそう考えたのかを明らかにすべきではないか。その根拠に妥当性があれば、それに従って(酒井著作権事務所に確認などせず)粛々と上演すればよかったわけで、問題自体発生しなかったのではないか。

2は質問状で「公演当日に上演中止を強く求められ」としか書かれていないが、これは最終結果であって経緯ではない。これ以前になんらかの交渉があったはずで、その詳細が明らかにされないと、開演直前の公演中止に妥当性があったとは思えない。問題が発覚して交渉が難航している場合、

  • 遅くとも公演数日前に中止を発表する
  • 上演続行を機関決定し、訴訟等に備えて準備を始める

のどちらかしかない。なぜ開演直前の中止になってしまったのか、時系列で経緯を詳細に説明すべきである。組織の瑕疵も明らかになるかも知れないが、それは「権利関係の知識や契約事務の未熟」とは別次元の問題、劇場として公演にどう向き合うかの問題であり、それこそが宮崎県立芸術劇場の抱えている演劇制作の課題ではないのか。

3は突然の公演中止で別作品を用意出来るわけがないので、パフォーマンスの内容は『三文オペラ』に関連するものだったと推察する。権利関係の問題で公演中止した状況で、そのようなパフォーマンスをすることの是非について、誰がどのような判断の下に行なったのか、明確な説明が必要だと考える。もし著作者人格権が焦点なら、非営利のパフォーマンスであっても抵触するはずで、中止発表後のパフォーマンスなどしないはずだ。逆にパフォーマンスする覚悟があるのなら、作品の上演を強行すればよかったのだ。

私がこの問題の根深さを感じたのは、毎日新聞3月3日付宮崎版の「25時」という記者コラムを読んだときだ。

 問題は、芝居作りの中核を担う演出家でさえ、トラブルを知ったのが中止当日だったこと。運営する劇場側が改変問題が未決着であることを伝えていなかったのだ。当初から交渉内容を共有していれば、契約に沿うアレンジも可能だったのではないか。

執筆した宮原健太記者は、学生時代は東大で劇団モデーンカンパニーを主宰し、新卒で配属された宮崎支局1年目でこの問題に遭遇した。以前から永山氏に取材を重ねており、この部分は他メディアが報じていない彼のスクープだと思う。

永山氏は、今年3月まで宮崎県立芸術劇場の「演劇ディレクター」を務めており、外部演出家ではなく劇場側の人である。この肩書は芸術面の責任者を指すはずだが、その人が「改変問題が未決着である」ことを知らされていなかったのなら、異常としか思えない。芸術面に専念させるため、敢えて交渉内容を共有しなかったのなら、「演劇ディレクター」という肩書は単なるお飾りと言われても仕方ないのではないか。これが本当なら、永山氏も被害者の一人だろう。

日本の公共ホールでも、演劇人を「芸術監督」「ディレクター」として配置するところが増えてきた。こうした肩書は芸術面の責任者に映るが、今回のように創作の根幹に関わる情報さえ共有されないところがあるのではないか。そうなると、単に作品ラインナップを決める際の「アドバイザリースタッフ」に過ぎない。だから委嘱料も安価なのではないか。「芸術監督」「ディレクター」が肩書にふさわしい権限と報酬を与えられているかは、要チェックだと思う。

これらは権利関係や契約事務に関する知識とは関係なく、組織の意思決定や危機管理能力そのものだ。現在までの劇場側の説明は、すべてを著作権のせいにして、自分たちの元々のダメなところに目をつむっているように思える。自分たちで現実を直視出来ないのなら、第三者委員会を設けて検証すべきだと思う。そうでないと、同じことがまた繰り返されるのではないか。次のような厳しい意見もある。

最後に地元の演劇人に言いたい。地元の創造拠点を批判することは、その地域で活動している演劇人にとっては困難なことだと思うが、こうした問題が発生したときは、目先の公演の可否だけにとらわれず、未来を見据えて考えていただきたい。それが創造拠点を進化させることになるはずだ。