この記事は2009年6月に掲載されたものです。
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リニューアルについて

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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リニューアルに伴い、カテゴリー名を改めることにする。文体も変えるが他意はない。「フリンジのリフジン」は、以前から「演劇制作SNS」内のコミュニティに使っている名前で、これ以上のネーミングはないと思うので表でも使うことにした。

まず、fringeの更新が3月上旬から滞ったことだが、これは個人的な事情が複数重なったためで、個人サイトである以上、そういう事態になればどうしようもない。fringeは個人サイトだと明記しているにもかかわらず、いまだに組織が運営しているかのように錯覚している読者がいるが、純然たる個人サイトで、一人の人間が手作業で更新している。ここ数か月、事情により食事や睡眠さえ満足に取れなかった状況なので、サイト更新が手付かずになるのはやむを得ない。「fringeは公共性がある」など、一部で高い評価をいただいたりもしたが、属人的なサイトはその人がいなくなれば終わりだ。そのサイトが本当に公共性があり、かけがえのない存在だと思うのなら、カネを集めて組織で回していくしかない。fringeも常に寄付は募集していたが、それに応えてくださったのは本当に少数だった。寄付が集まれば、ライターを募集して組織による運営も考えたのだが……。人間、「身銭を切れるかどうか」で最後は決まるんじゃないかと思う。これは真実で、プロデュースというものはそういうものだ。身銭を切る覚悟があるかどうかだ。

今回のリニューアルは、経緯としては札幌江別近郊演劇情報「SaEKin」の変遷とよく似ている。「SaEKin」もHTMLでの更新が困難になって「更新休止宣言」をしたが、その後ブログに移行して現在に至っている。カンパを積極的に求めるなど、財政面の背景はfringeと異なるが、個人でどうやって情報ポータルを維持していくかという葛藤は、とてもよく理解出来る。見た目はさほど変わっていないように思えても、fringeの場合は1日最低2時間は更新作業に必要だった。[トピック]も情報の確認が必要だし、数千ページに及ぶサイトの修正は毎日それなりに発生する。公共性という評価が高まるにつれ、記事の文言について当事者から修正希望が頻繁に入る。好きでやっているとはいえ、これをずっと続けていくのかと思った。

個人サイトの醍醐味というのは、やはり個人の意見を自由に書けることだと思う。そういう楽しみがなければ、ボランティアで情報ポータルを続けるのは難しい。けれど、情報ポータルとして公共性が増せば増すほど、そこには客観性が求められるわけで、個人の運営としては精神的に矛盾することをやっているわけだ。果たしてそこに1日2時間以上かける価値があるのかを、更新が滞ってから考えてしまった。更新休止中、「なぜfringeをやっているのか」をよく自問自答したが、最も大きなモチベーションになっているのは、ひとことで言えば「インターネットへの恩返し」に尽きる。若い人は意味がわからないかも知れないが、ネット創世記からやっている私にとって、ネットというのは「互いに物事を教え合う場」だった。それぞれ自分が得意とする領域のサイトをつくり、従来なら専門書や専門家に接しなければ得られない知識を、無償で習得出来る画期的な存在がネットだった。そういう空間に浸ってきた私にとって、無償で情報を提供するのは当然の行為なのだが、現在のネットは多くがビジネスに移行し、演劇人のサイトもその多くが自分たちの宣伝行為か周囲に向けた日記になってしまっている。興行を考えると宣伝に走るのは仕方ないけれど、もう少し「このサイトがあるなら自分もサイトを続けてみよう」と思わせるサイトがあってもいいと思う。そうした個人間の刺激があってこそネットは魅力的なのであり、「恩返ししたい」と思わせるサイトにいくつ出会えるかだと思う。

fringeのリニューアルについては、いくつもの方法を考えた。属人的な更新では必ず限界があるので、複数筆者による更新が不可欠だ。最初は全部Wikiにしてしまおうかとも思ったが、そうすると全ページ公演案内になってしまうのが目に見えていたので、試行錯誤の結果、現在の形を採用した。投稿規約に同意してもらった上で、更新に参加出来る人を少しずつ増やしていきたいと思う。筆者が増えれば、fringeの記事にも多様性が生まれて、細かい注文も減るのではないか。もう一つ意識したのは、意図的に読者と距離を置くこと。これは以前から指摘されていたことだが、若い制作者の中にはfringeをバイブルのようにしている人がいると聞いた。情報共有は大切だが、バイブル扱いは確かにおかしい。制作者の実力は、本人が経験を積み重ねてこそ培われるもので、失敗して初めて身に着くものもある。はっきり言って、若いうちは失敗してナンボだろう。fringeを鵜呑みにしている制作者がいるとしたら私も心外なので、今回[ツール]は全削除し、それ以外の記事も自分で少し調べさせるような記述にした。まあ、調べると言ってもリンクをたどればいいのだから簡単だが。旧サイトは、周囲に相談出来る人が少ない地域の制作者を想定し、手取り足取り教えるような気持ちでコンテンツを揃えたが、それはもういいんじゃないかと思う。「fringeチルドレン」ではなく、どうか自分で経験を積み重ねていってほしい。

リニューアル後の構成については、もう慣れていただいたと思うが、従来の[トピック]を[ヘッドライン][募集情報][ケーススタディ]に分割し、さらに恒例になっているイベントは[カレンダー]に収録した。[ヘッドライン]は主要ニュースの項目のみを扱い、他のカテゴリーとは重ならないようにした。読者のほうが意識して各カテゴリーを巡回する必要がある。従来より読者のクリック数は増えるが、問題意識を持った読者の情報量は変わらないはずだ。本当にやる気のある人だけを、サイト上でも選別したいと思う。個別の記事を[ヘッドライン][カレンダー]に集約し、更新の手間も省いた。もちろん、fringeがきちんと紹介しなければいけないと感じたものは[ケーススタディ]で取り上げる。逆に記事のメリハリがついたのではないかと思う。更新状況はトップページを下まで見ればわかるはずで、情報を自ら探す人を大切にしたいと思う。

複数筆者による更新としては、サイト全体をWordPressで構築し、[募集情報][ケーススタディ]への投稿を可能にする計画だ。これも放っておくと公演案内だらけになる恐れがあるので、ルールを設けて慎重に進めたい。掲示板機能は新たに「fringe forum」を設け、制作者と制作者以外が交流する場と位置づけた。持続可能なサイトを目指して、いずれもプラットホームを整えたつもりである。「演劇制作SNS」と機能分担しながら、制作者の真の情報ポータルになればと思う。WordPressでの構築は一長一短あるが、いまリニューアルするとすれば、やはりこの選択になると思う。動的にページを生成しているので、表示が乱れた場合は再読み込みをお願いしたい。

更新が滞っている間、観劇からもずいぶん遠ざかってしまった。食事や睡眠が取れないのだから、これもやむを得ない。というか、人間は別に演劇を観なくても生きていける。観劇人口を増やしたいと思っている人間がこう考えること自体が不謹慎かも知れないが、この3か月は「演劇は人生に必要なのか」を再考する時期でもあった。演劇人なら「必要に決まっている」と答えるだろうが、果たして本当にそうだろうか。平田オリザ氏によって演劇の公共性が理論化され、演劇は医療と同じように不可欠な存在とされたが、演劇を本当に観てほしい激務の人が劇場に行く余裕があるのか、行けるような開演時間になっているのかという疑問を改めて抱いた。

本来は、精神が不安定であったり心に何かわだかまりがあるときにこそ、あるいはもっと単純に失業して気持ちが沈んでいたりするときにこそ芸術が必要とされるのだ。

平田オリザ著『芸術立国論』p.138(集英社、2001年)

そのとおりだと思うが、そのためにはもっと開演時間や公演日程の工夫が欠かせないはずだ。私自身、この期間中の観劇は平日19時開演のものは全部遅刻してしまった。主催者には申し訳ないが、平日19時というのは都心であっても多忙な人には厳しいと思う。toiの18時半開演への批判は議論を招いたが、私があの問題提起をしたのは、そこから演劇全体の開演時間へ議論が広がってほしいとの思いもあった。どんな物事にも当事者しかわからない事情があり、見えない苦労があるのは理解している。けれど、演劇が人々のために必要だと思うのなら、そうした万難を排して人々が接する環境を構築しなければならない。もちろんすぐには無理だろうし、一つの団体の努力では出来ないことも多いだろう。けれど、それを出来ないとあきらめたり正当化するのではなく、出来る世の中にするためにはどうしたらいいのかを考えないと、演劇界に未来はないのではないか。それが出来ないのは、人材が定着せずに代替わりしていく演劇界の構造的欠陥ではないのか(若手がそういうことを実現する年齢になる前にやめてしまう)。私を含め、劇評サイトなどを運営している人もそうだと思うが、別に個々の団体が憎くて批判をしているのではない。演劇が好きで観劇人口を広げるためにどうしたらいいかを考えて書いているだ。個々の団体の評価なんて、別に大した問題ではない。

観劇からも離れてしまうと、演劇をずいぶん客観視することが出来る。好きでそうなったわけではないが、敢えて距離を置くことで見えてくるものもある。演劇がなぜマイナーなのかを考えると、それは演劇にどっぷり浸っている人しか発言しないからだと思う。演劇を愛している人ほど、演劇の周囲が見えなくなっているのではないかと感じる。演劇人、観客、マスコミを含め、いま演劇に対して発言している人は、普段演劇に浸れることの出来る環境にある人だ。演劇を観ることが仕事の演劇記者や演劇評論家にとって、観たくても観られない人の気持ちは、なかなか実感出来ないだろう。演劇が人生の演劇人はなおさらだ。演劇が身近な存在になるには、もっと違ったアプローチが必要なのではないかと、この3か月ずっと感じていた。これを突き詰めると劇場の存在意義にも考えが及び、私自身まだ答えが見つからない。演劇は本当に必要なのか。演劇人自身が演劇を疑うことから始めてもいいのではないか。特に制作者はもっと演劇人以外の声を聞くべきだと思う。