その地域で活動している劇団数を書き、「これだけ数があるので演劇が盛んだ」という論旨の文章を見かけることがよくあります。行政の文章でもこの手の書き方によく出会いますが、私はかなり抵抗を感じます。「盛ん」という言葉の定義にもよりますが、数が多いことと演劇活動が活発ということは決してイコールではないと思います。
ここで言う劇団数の定義がそもそも怪しい。演劇の場合、カンパニーとは別にユニットを結成したり、別の名前でプロデュース公演を打つことがめずらしくありません。それを別々に数えていたら、劇団数はたちまち3倍、4倍になってしまいます。劇団数というのなら、母体となるカンパニーで活動継続中のところだけをカウントしなければなりません。情報誌やチラシで拾った名称を網羅的に加算した数では、かなり水増しされているはずです。地元の演劇事情に精通し、カンパニーとユニットの区別がつけられる識者が正確にカウントした数を使ってほしいものです。
数と活動の関係ですが、例えば青森のカンパニー数は少なくても、全国に知られる弘前劇場があります。現地で職探ししてでも弘前劇場に入りたいという方がいると聞きます。その土地へ移住してでもやってみたい演劇がある、あるいはその作品を観るためだけに他地域から観客が集まるカンパニーがある、そういう集団があるかどうかが大切ではないかと感じます。
並のカンパニーがたくさんあるより、突出したカンパニーが一つあるほうが、長い目で見て演劇は盛んになるのではないでしょうか。
確かに「突出した劇団」があると理想なのですが、それは無数の並劇団があってこそ生まれてくるのではないか…と、私は考えています。北海道の 活 劇団数(活火山に例えてこう呼んでます)はわかりませんが、その弘前劇場の魅力は東京や大阪で「もまれた」才能とは無縁なのでしょうか。
はじめまして。
私も東内さんと同じく「量は質を決定する」と思うので、数は必要だと思います。数が盛んかどうかの指標としてどうかとは思いますが、質に大きく影響を与えているはずです。
荻野さん、ご無沙汰しております。
かつて、私のブログでも触れましたが、
「なごや文化情報」は数とシーンの盛衰を関連づけている
わけではありません。しかし、カンパニーとユニット
の違いは見分けられておらず、活動をもう何年もしていない
ように見える名前がかなり含まれていました。
そういう細かい動向に対応できない財団は、
今後生き残って行くのが大変だろうとは思います。
「数」をどこでどう区切るかということであるように
思います。その地域にのみ通用するものを目指すか、
もっと広い普遍性を追求するか、というような。
皆さん、コメントありがとうございます。
数の土壌が質を育てていくという説は私も信じたいところですが、残念ながら私の経験ではそんなことはありません。これがビジネスなら市場競争でサービスの向上が期待出来るでしょうし、スポーツなら試合を通して鍛えられていくでしょう。しかし、演劇にはそのような効果があまり期待出来ません。
もう少し理由を掘り下げますと、演劇人が他の集団の作品をあまり観ないこと、相互批評に消極的なことが関係していると思います。中には足繁く劇場通いしている演劇人もいますが、それはめずらしい部類で、見巧者の観客の方には信じられないくらいの本数しか観ない者が多いです。作品を観ないわけですから、影響を受けることもないのです。
質の向上を望むなら、観劇後は突っ込んだ合評会をすべきですし、集団内でも批評が繰り返されるべきでしょう。ところが人間関係を気遣ってか、演劇人同士の批評は限られています。集団内で役者が演出家を批評するのもタブーでしょう。酒の席で身内だけの感想戦はあるでしょうが、これも相手にフィードバックしないと影響を与えられません。
数の論理が本当に正しければ、東京には優れたカンパニーがもっと多くなければいけないはずです。ところが、東京の若手カンパニーも活動の糧になっているのは東京ではなく利賀での経験だったりします。相互の観劇と批評が確立されない限り、数が質に影響を及ぼすのは難しいわけです。
>東内さん
弘前劇場の場合、他地域の観客の視線にさらして、作品に普遍性を得るのが旅公演の目的です。他地域でやることが大切なわけで、それが東京である必要は全くないと明言されています。数にもまれようとしたわけではないと思います。
弘前劇場サイト「弘前劇場の活動とその方法論」
http://www.hirogeki.co.jp/about_us/about_us.htm
こんにちは。
コメント書ける、と思ったので、失礼します。
1年前に書いた卒論のテーマが「地域文化の創造」というもので、
地元は北九州で当時住んでいたのは福岡市だったのですが、
長崎市を事例として取り上げました。
長崎市は約5年前からブリックホールという公共ホールができたのをきっかけに、市民参加舞台という事業が始まりました。
「長崎で有名な劇団」と言っても、ぱっと思いつくところってそんなにないかもしれませんが、
劇団数があまり多くないから(触れる機会がないから)こそ逆に市民の方々が演劇や舞台に興味を持たれたみたいで、
いまおそらく長崎は演劇が「盛ん」になりつつあるところだと思います。
それが5年後、10年後にどういうふうになっていくのかはわかりませんが、
「熱」は確かにあって、それは、実は北九州に住んでいてもあまり感じられないものだったりもします。
傍から見ると北九州は演劇が「盛ん」に思われるかもしれませんが。
盛んじゃなくはないんですけどね。
長々と、失礼しました。
観客の立場からすれば、ある程度の数がないとその地域に演劇が存在することが視野に入ってこないという面もあります。ジャンル全体の認知度を高めて普及を図るためには、“並のカンパニー”でもいいから数も必要ではないでしょうか。
数があれば質が上がるというわけではないのは同感です。東京は名古屋に比べほぼ1桁多い数の公演がありますが、質がそれほど高いとは感じません。
ども。前のコメントでは、質が高くなるためには数が必要と言えばよかったですね。
都市と地方で質の差を感じないという点は、今の演劇の質というものが、一部の才能のある方に頼った属人的なものだからではないでしょうか。
質の高い舞台には、底辺の底上げも、エリートの養成も両方必要なのではと思います。
私は現在のカンパニー数、公演数が多すぎると考えている人間です。カンパニー数が多いこと自体は一概に悪いとは言えませんが、公演数はもっと減らすべきだと思います。
演劇をやりたい人が増えること自体は歓迎すべきことですが、それと公演を打つことは全く別です。いまの小劇場界は、公演が簡単に打てすぎてしまうことが質の向上を阻んでいると思います。
普通の業界では志望者が増えれば競争率が増し、狭き門になって質の向上が図れます。ところが小劇場界では、志望者がそのままカンパニーを旗揚げして、そのまま公演を打ってしまいます。志望者数に公演数が比例する構造です。媒体に記録されて流通される表現分野では、市場に受け入れられるかのチェックが必ず入りますが、ナマの演劇はそれがないため、作・演出の一人よがりの作品がそのまま上演されるケースがめずらしくありません。
fringe/ナレッジ「なぜ制作者が必要か」
http://fringe.jp/knowledge/k013.html
もし本当に数によって質の向上を図るのなら、公演される作品は劇場側にもっと吟味され、絞られる必要があります。その代わり、本当に優れた作品はロングランが許されるのです。力のないカンパニーは何度も戯曲の書き直しが命じられ、いつまで経っても公演が打てないわけです。私は制作者たちが所属カンパニーを離れてNPOをつくり、複数の劇場から委嘱を受けてこうした役割を担うべきだと考えています。
>#10さん
演劇をやる側の人口を増やすことが目的なら、敷居の低い並のカンパニーが多いほうが入りやすいのは確かです。しかし観客の人口を増やすことが目的なら、数は少なくても芸術性の高い表現が出来るカンパニーが地元を拠点にしているほうが、住民も「今度の公演には行ってみようかな」という気になるのではないでしょうか。
情報誌などの演劇欄縮小がよく嘆かれますが、演劇欄は元々演劇ファンの読者しか見ないわけですから、それが縮小されても観劇人口に影響はありません。それよりも、演劇ファン以外にも知られる存在の人気カンパニーが一つあれば、演劇欄ではなく雑誌巻頭のインタビューなどに登場するでしょうから、新しい観客の開拓につながります。
長期的に考えて、どちらが演劇を「盛ん」にすることになるのか。私が言いたいのはそういうことなのです。
>ぶさん
演劇は芸術ですから、その質が属人的なのは当然でしょう。俳優や技術スタッフは技の継承が可能ですが、作・演出はどこまでそれが出来るのか。底上げによって並の才能は生まれても、そこから先は本人の資質ですから、エリート養成にどれだけ意味があるのか、私は疑問です。
それよりも重要なのは、表現を育む環境のほうではないでしょうか。様々な要素があると思いますが、どれだけ人と違った経験をしたか、どれだけ新しいものに触れたか、どれだけ自分自身で悩み苦しんだかの違いでしょう。例えば青森や山口から才能が現われて、プロフィールを見ると三沢や岩国のAFN(旧FEN)を聴いて育ったと書いてあったりする。そういうものがいくつかあるかの積み重ねでしょう。
カンパニーの数は少しでいい。けれどその街には、様々な意見が飛び交うサロンがあり、マニアックな品揃えで一目置かれる書店があり、DVD化されていない作品がかかる名画座がある。そういう街のほうが突出した才能は生まれると思います。
出版流通に受け入れられない作品も、「同人誌」という玉石石石石石混淆の形で多数発表され続けてます。この同人誌の中からめでたくデビューする作家あり、止めてしまう作家あり、ソコソコの人気・質をソコソコ維持していくだけの人あり…。日本の演劇は、これと同じような発展を遂げていくのではないかと思います。実は私も「数の土壌が、質を育む」とはちっとも思っていません。10倍の活劇団があるから、優れた公演が5倍とか10倍になるとも思っていません。
「数の土壌が、質を生む」と考えているのです。
優れた劇団が「そこを拠点にしている」から盛んとは思いません。しかし「演劇表現をしたい人が数多くいる」というのは、その表現欲の高まりが街を覆っているという意味で、盛んな街だと感じるのです。
裾野は必要だと思います。草野球でもプロ野球のファン層です。つまり、「やる者は観る者でもある」ということです。
ですが、レベルに低い公演を「公演」として、お金を取るというのは疑問があります。いっそ「発表会」というネーミングを演劇でも使えばどうかと思います。プロを目指すわけでもなく、楽しみでやるならば最初から「発表会」と銘打つのが妥当ではないでしょうか?
これまでのご意見をまとめますと、「数と質は比例しないが、数は質を生み出す土壌になる」ということになるでしょうか。裾野という意味では、確かにそのとおりでしょう。
このコメントツリーを読み書きしながら、私がなぜ数と質を切り離すことにこだわっているのか、その根っこの気持ちが整理されてきました。数をもって盛んだとする文章に私が違和感を抱いたそもそもの理由になるのですが、それを説明したいと思います。
ひとことで言うと、「数が多いことを是とすると、そこに逃げ道があるようでイヤ」なんです。表現活動をしている自負があるカンパニーなら、他者から認められる存在になりたいと思っているはずです(動員数や劇評などベクトルは異なると思いますが)。その意味で、誰もが「突出したカンパニー」を目指しているはずなんですね。本当に「突出したカンパニー」になれるのは一握りでしょうし、淘汰されていく集団も少なくないでしょう。けれど表現の真っただ中にいる連中にとっては、「目指せ! 突出したカンパニー」なんです。
芸術に携わる者は、死ぬまで精進だと言います。自分が「これでいい」と思った瞬間に歩みが止まってしまうと言います。「数の土壌が、質を生む」というのは否定しませんが、それを口に出して言うと、数が多いことがいいことのように聞こえて、並のカンパニーでもいいんじゃないかという「甘え」を呼ぶような気がするのです。私は、それぞれのカンパニーに「並ではいけない、突出した存在を目指すんだ」と思ってほしい。だから、敢えて数が多いことが無意味であるかのように書きたいのです。
「市内には劇団が100以上あると言われており、日々活発な活動が繰り広げられている」と書いてしまうと、「いまのままでいいんだ」感が漂うんですね。そうではなく、100集団の一つ一つが「自分こそは十把一絡げの扱いから抜け出し、固有名詞で書かれたい」と思わないと、向上心が希薄になると思うのです。その自覚を促すために、敢えて「数の土壌が、質を生む」は口に出したくないのです。
>東内さん、中立さん
同人誌は書店流通に乗りませんから(置かれたとしても同人誌コーナー)、読者にも明確に区別が付きます。演劇の場合、その区別がなく、観客にはそれが「同人誌レベルの公演」なのかどうかもわからないのが問題です。中立さんが書かれている、いっそ「発表会」にしたらというお考えは、私も同感です。
草野球の場合、プロへの憧れの気持ちが「やる者は観る者でもある」という環境を実現していますが、残念ながら演劇は「やる者の多くはやるだけ」が実態です。そこが変わっていけばいいのですが。
要は 量と質のバランスがとれていないといけないわけで・・
わかる人にはわかる表現をするならば
ゲーム業界でいうATARIショックのような状態が
現状の東京での小劇場じゃないでしょうか・・・
若干、表現は悪いですが・・