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 京都在住の松田正隆と鈴江俊郎が第四十回岸田戯曲賞を受賞したことは記憶に新しい。地方からの複数受賞、しかも関西からは三十二年ぶりの快挙ということで、東京でも大きな話題になったようである。芸術選奨新人賞のマキノノゾミ、鈴江との共作でシアターコクーン戯曲賞を受けた狩場直史、さらには文化庁舞台芸術創作奨励特別賞と劇作家協会新人戯曲コンクール大賞の右来左往と合わせ、京都を中心とする関西勢が全国区で評価される機会が続いた。この現象を受けて、関西の演劇環境に特別な意味を見出そうという論評もあるようが、果たして地域の実態が正確に全国に伝わっているのか、そこに住む一人として疑問に感じることが多い。この稿では関西の現状を考察しながら、そこで創作を続ける松田正隆と彼が主宰する時空劇場の姿を見詰めていきたい。

 そもそも関西在住の劇作家のうち、本当の地元出身者は限られることを読者はご存じだろうか。演劇人を輩出する場として教育機関の存在は大きいが、関西では舞台芸術学科を有する大阪芸術大学と、学生の街と言われる京都市内の各大学がその基盤となっている。前者はその名称から地域性の強い大学という錯覚を抱きがちだが、西日本有数の総合芸術大学で全国から若者が集う。この大学から巣立った南河内万歳一座・内藤裕敬は栃木生まれの東京都東久留米市育ち、同じく劇団☆新感線・いのうえひでのりは福岡出身である。後者も同様で、京都と言えば古都のイメージが先行するが、実は人口に占める学生の割合は全国一なのだ。京都に憧れを抱く学生を全国から集め、歴史的社寺と若者相手の街並みが共存する風景は、観光でしかこの街を訪れない人々の先入観を覆す。

 現在の関西小劇場の担い手たちは、受験結果によっては東京で活動をしていても、なんら不思議はなかった。受験期の多感さが彼らを関西に導いただけのことなのだ。この事実を忘れて関西の劇作家論を語るのはナンセンスであろう。地域の代弁者というよりは、むしろ関西を客観視出来る立場の観察者として位置づけなければならない。例えば阪神大震災を描いた作品でも、そこには生まれ故郷の崩壊という感傷的次元はなく、南河内万歳一座『夏休み』のように、醒めた視点で人間関係を掘り下げる試みがあった。地方出身者の坩堝という点では、関西も東京となんら変わりはない。東京で活躍する地方出身の劇作家の地域性が特に話題にされないように、関西の劇作家たちを地域でカテゴライズする正当性を私は見つけることが出来ないのである。

 それでは、関西の演劇環境に全く独自性はないのかと問われると、私は一つだけあると答えたい。それは「関西は東京ではなかった」ということである。いささか禅問答じみているが、関西で本格的な活動を始めると、観劇人口やマスコミの仕事量などで、ここが東京ではないという事実を痛感させられる。学生時代は意識しなくても、演劇で食べていこうと決意すればするほど、東京との市場規模の格差に愕然とすることになる。東京の人気劇団以上の実力を持ちながら、本拠地が関西だからという理由だけで埋もれてしまうのだ。なぜ東京公演をしないという理由だけで演劇ジャーナリズムは注目しないのか。――この素朴な疑問が、東京の小劇場における最近の関西劇団ブームの原動力であり、関西在住の演劇人の共通の思いであると言っていい。

 関西の劇作家の台頭は戯曲賞の存在が大きいが、逆説的に言えば、戯曲賞がなければ東京の演劇ジャーナリズムは松田や鈴江の存在に気づかなかったことになる。彼らの劇団が積極的に東京公演を打つ集団でないため、その危険性は小さくなかった。もちろん全国に目を配るには物理的限界があり、そこでは地方からの情報発信と受信感度が問われることになる。その意味からも賞とは別の次元で、その作品の真価を伝える努力が関西の演劇評論家に必要なのではないかと思う。松田の岸田賞受賞第一作である時空劇場『明日は天気になる』で盛況になった記者席を見て、私は喜ばしい反面、言いようのない虚しさに襲われたのである。

 六二年生まれの松田正隆が本格的な演劇活動を始めたのは意外に遅く、立命館大学四回生のときにようやく学内劇団に身を置いている。それまでは学園祭のクラス行事で年に一度芝居を上演する程度だったが、観客として肥えた目を養っていた。当時の立命館は、竹内銃一郎や清水邦夫作品が好んで上演され、学生演劇を超えた完成度を見せていた。私は松田と立命館の同期で、この文章を書くにあたって記憶を確かめ合ったところ、互いにこれらの学内公演が強烈な原体験になっていることがわかった。八二年から八四年にかけ、数百円の入場料で楽しめた学生演劇が、故郷の長崎で演劇とは無縁だった松田の人生を大きく変える出発点となったのである。

 留年が決定したこともあって、四回生でようやく劇団に入った松田だが、結局大学には七年間在籍し、京都で高校の非常勤講師の口を見つけて卒業することになる。長崎に戻る道もあったが、「心のどこかに芝居を続けたい気持ちがあった」と言う。学内劇団では唐十郎に感化され、当時の松田の作風はまさにその模写であった。叙情的な展開と劇中歌を織り込んだ物語は、現在の時空劇場しか知らない観客には想像し難いものだろう。八八年、学生生活最後の冬に手掛けた『永遠の遠国』、そして九〇年の時空劇場旗揚げ作品『落日の彼方』と、松田は彼自身の郷愁を昇華させるように作品を生み出していく。

 時空劇場が関西で注目されたのは、九二年の第五回公演『紙屋悦子の青春』からだが、この作品から「長崎三部作」と呼ばれる茶の間を舞台にした会話劇の世界が始まる。食事の場面をふんだんに取り入れながら、日常の風景に忍び寄る死の影を描く作風自体は、八九年初演の二人芝居『蝶のやうな私の郷愁』で試みられたものだが、そこには派手な物語性は感じられず、松田が母親の体験を元に書いたという長崎の生活がある。唐のエピゴーネンを脱して自分自身の世界を築きたいという欲求と、それまでの公演で在日や同和問題を扱い、現実を前に第三者が物語を紡ぐことの無力さを感じたことが、彼の原点である長崎に目を向けさせたのだ。土地の持つ被爆、水害という悲劇性が彼の着地をより印象深いものにした面もあるが、その史実を凌駕する緻密な構成が新しい時空劇場を生み出したと言えるだろう。出演者全員が長崎弁を操り、決して声高になることなく一つの人生を描いた『紙屋悦子の青春』は、そんな彼らの理念を示した作品だった。まさに松田自身のターニングポイントと呼べる作品だったのである。

 戯曲だけではなく、この作品では出演者に漂う屹立とした精神が、印象をより際だつものにしていた。初めて京都から大阪に進出した緊張感だけでなく、それを超えるなにかがあったような気がしてならない。思い当たるものとして、時空劇場の男優・はしぐちしんの存在を挙げておく。彼は九一年の第二回公演『雪がふる』楽日前日に交通事故に遭い、下半身不随の重傷を負った(彼は車椅子を用いながら現在でも演劇活動を続けている)。昨日まで同じ舞台にいた仲間の惨事が、時空劇場の全員に改めて表現することの意義を考えさせたのではないだろうか。松田自身はこの事件は顕在化してはいないと語るが、『紙屋悦子の青春』では、車椅子に乗ったはしぐちの回想から物語が始まる。その姿は作品の死のテーマと相まって、演劇をすることの意味を私に訴えてくる。

 九三年『坂の上の家』、九四年『海と日傘』という三部作を支配していた死というテーマを経て、松田が九六年六月に岸田戯曲賞受賞第一作として発表したのが、第九回公演『明日は天気になる』だ。「他人との共生に目を向けました。自分探しなどといった個人的な問題から離れて、身の回りの他人を認識するのがこれからの演劇表現の方向ではないかと思っています」(朝日新聞大阪本社版九六年五月三十日付夕刊)と語るように、場末の古アパートで展開する青春群像をコミカルに描いている。向かいの部屋に住む憧れの女性を巡って一喜一憂する三人の若者は、紛れもなく松田自身の分身だし、時間の流れが止まったように思われる部屋は、学生のモラトリアムを懐深く受け止める京都の街そのものだ。長崎三部作で見せた上の世代の人生ではなく、ここには松田自身の等身大の世界があり、新しいテーマに挑もうとする決意が感じられる。

 戯曲的には登場人物が性善説に立ちすぎ、リアルな私たちの世代を描くには物足りない印象が残ったが、それは死という絶対悪が背景にあった長崎三部作を超えるために、松田自身が乗り越えるべき課題だと思う。青春群像ということで、松田が培ってきた会話劇の静的な醍醐味を堪能出来る場面が限られていたのは計算ずくだろうが、松田戯曲に多用される余韻を大胆に削った竹内銃一郎演出『坂の上の家』(第一回OMS戯曲賞大賞作として、OMSプロデュースで九五年に大阪・東京で上演)に影響されすぎたのではないか。劇作家と演出家の才能は全く別物だと私は思うが、自ら主宰する集団なら、戯曲の行間を読みとる表現が役者の側からも生まれると信じている。そうでなければ劇団を組織する意味がなく、小劇場の主宰=劇作家=演出家というシステム自体の否定にもなりかねない。

 理念がないと指摘されることの多い関西小劇場だが、松田に関しては毎回のテーマと目標の立て方に見るべき部分が多く、時空劇場の歩みを今後も注目していきたい。もちろん彼自身も様々な手法を試みる途上であり、たくらみが毎回成功するとは限らないが、人間の営みを精緻に描く筆力は期待出来よう。それは関西在住と無関係に、どこにでも通用する普遍性を持つものだ。

国際演劇評論家協会(AICT)日本センター編『シアターアーツ』7号(晩成書房、1997年)掲載