ラッパ屋の本格的公演再開における、鈴木聡氏のインタビューに共感する点が多い。
小劇場演劇(小劇場)の作品ごとのクオリティは、確かに高まっているかも知れない。けれど、作品のクオリティが高まることと、小劇場が盛り上がることとは全く違う。いまの東京の小劇場界を盛り上がっていると感じている人は、大きな勘違いとしていると思う。作品のクオリティが高まることで、狭い小劇場界の密度が濃くなっているだけで、小劇場の間口が広がっているわけではない。間口が広がらずに密度だけが濃くなると、身内度がどんどん増していくわけで、観劇人口を増やすにはむしろ逆効果ではないかと感じる。
作品のクオリティが増すこと自体は歓迎すべきことだ。わかりやすいエンタテインメントよりも、そうでない表現のほうが小劇場には意義があると感じる。だが、たとえ観客を選ぶ作品であっても、東京の観劇人口のポテンシャルを考えると、いまの小劇場の観客動員はどう考えても少なすぎる。せっかく作品のクオリティが増しているときこそチャンスなのに、なぜそれを観客動員につなげていかないのかと思う。「芸劇eyes」の力を借りずとも、同じレベルのことが個々のカンパニーで出来ないと、話にならないと思う。
小劇場は壮大な実験場で、それぞれの表現を存分に試せる場所だ。観客に媚びることはないし、動員のためにエンタテインメントに徹する必要もない。けれど、どんなに実験的な作品でも、一定数の観客に届かなければ、実験以前の自己満足になってしまう。限られた小劇場フリークだけの評価ではなく、作品を広く世の中に問うことを考えてほしい。演劇は観客がいなければ成立しない。小劇場だから観客の範囲を狭めていいという理由はない。作品を変えろと言っているのではなく、いまの作品のままで新たな観客を呼ぶ努力をもっとしてほしいのだ。
これも同感だ。小劇場から他メディアへの進出に伴い、そうした人材が小劇場に観客を誘導してくれるのではないかという期待が私にもあった。だが、現実はそれほど甘くないようだ。観客の意識もそうだが、演劇人の側にも「小劇場の伝道師」という気構えがないように思える。小劇場というのは、「卒業」してしまうところなのだろうか。
舞台や映像だけでなく、活字の分野にも演劇人は進出しているが、相手のメディアで小劇場の魅力を語る人が少ないように私は感じる。取材やエッセイの場を使って、もっと読者を小劇場に誘ってほしい。そうでないと小劇場がキャリアの踏み台、才能の草刈場になってしまう。小劇場から表現をスタートした人間なら、自分を育ててくれた世界をもっと知ってもらいたいと思うのが当然ではないのか。別の表現だからと割り切ってしまう演劇人が多いようで、私にはとてももったいなく思える。
(参考)
小説を出版する劇作家たちへ