この記事は2007年4月に掲載されたものです。
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演出家が正しいとは限らない

カテゴリー: fringeのトピック以前 | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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制作者の岩佐暁子氏が、個人ブログ「gunlog」で「テロリストの悔恨」という文章を書かれています。小鳥クロックワークを解散した西悟志氏によるユニット「TextExceptPHOENIX+steps」(略称・TEP+steps)の第1回公演『ニッポニアニッポン』の劇中シーンについて触れたものです。

この文章だけ読むと正論に思えますが、私はこの作品を観た者としてこのシーンは悪趣味に感じ、周囲にもその旨を伝えました。それはテロを信じるとかのレベルではなく(台詞や演技自体にリアリティがなく、すぐ演出効果だとわかりました)、この作品にこの表現が不可欠であると感じなかったからです。このシーンを批判している人は、「誤解」や「テロを騙ったからダメ」ではなく、「必然性を感じなかったからダメ」と思っているのではないでしょうか。

もちろん創り手の側にはそれなりの意図があるのでしょうが、私はそれが弱いと感じました。仕掛け自体がダメと言っているのではなく、結果的に仕掛けだけが浮いてしまい、それが悪趣味に映ったのです。観客の批判に反論するのは構いませんが、それなら上辺の反応ではなく、表現として本当に成立していたかを論じてほしいと思います。岩佐氏の文章はあのシーンが必要だったという前提で書かれているようで、それはいかがなものかと思います。

西氏の小鳥クロックワーク時代の作品は、私も高く評価しています。最終公演『わが町』は私の2005年ベストワンですし、04年の劇団山の手事情社EXTRA企画『作、アレクサンドル・プーシキン』にも魅了されました。しかし、両作品とも西氏の演出に自己陶酔的なものを感じ、表現が過剰に思えた部分がありました。『ニッポニアニッポン』の問題のシーンもその延長だと感じています。

制作者が作品を守るのは当然ですが、それは作品を客観的に見つめた結果でなければなりません。演出家と一定の距離を置き、最初の観客として判断する必要があります。そうでなければ理論武装する言葉も生まれないでしょう。その点、岩佐氏は誰もが読めるネット上で「西さんの作品にべたぼれ」と公言されています。こういうことを書かれると、果たして客観的な視点がどれだけ保たれたのか疑問に思ってしまうのです。

岩佐氏がそこまで西氏を買っているのなら、いま制作者としてすべき仕事は、演劇から遠ざかっている西氏にTEP+stepsの第2回公演をさせることではないでしょうか。有無を言わさぬ圧倒的な作品をつくり、私も含めて批判した観客を見返してください。


演出家が正しいとは限らない」への1件のフィードバック

  1. 高野しのぶ

    私もあのシーンを好意的に受け取れなかった一人です。でも相変わらず西さんのファンですので、ぜひ復活してもらいたいと思います。

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