この記事は2005年4月に掲載されたものです。
状況が変わったり、リンク先が変わっている可能性があります。



高校演劇の不思議

カテゴリー: fringeのトピック以前 | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

Pocket

高校演劇について書きたいことは多いのですが、全国大会(全国高等学校総合文化祭演劇部門)を頂点とした現在のコンクール制について、私が不思議でならないことを一つだけ書きます。

なぜ、既成戯曲とオリジナル戯曲(創作脚本)が一緒に審査されているのでしょう。

コンクールは作品の全体的な完成度で審査されているはず。作品の出来は戯曲に大きく依存します。だとしたら公平な審査は不可能に思えるのですが、それが同じ基準で競っているのは私には謎です。オリジナル戯曲は演劇部顧問の手によるものも多いようですが、これも部員オリジナルと区別しなければ不公平ではないでしょうか。さすがに全国大会になると誰もが知っている既成戯曲は使われていないようですが、顧問創作が幅を利かせています。ブロック大会ではまだ既成戯曲が散見されます。

「パペット劇場ふらり旅 ~広島~」は古城十忍氏の意見を紹介していますが、そもそもの問題は、既成戯曲の参加に制限がないことにあると私は感じます。演劇の60%は戯曲で決まります。素晴らしい戯曲があれば、役者の演技以前に物語の力で評価を得てしまいます。全国大会は「演劇の甲子園」と言われますが(「高校演劇・東京山手城南地区情報」は、この呼び方は「好きではありません」としています)、高校野球に例えると既成戯曲を使う演劇部は、選手9名中5名に助っ人を使っているようなものでしょう。

「高校演劇・東京山手城南地区情報」はWeb上で安易に既成戯曲を探すことについて、

ネットこそ情報の選別能力が問われるのに、演劇経験の少ない、台本の書ける部員のいないところほど、ネットに頼らざるを得ないという実態は、何とかしたいところです。

と、顧問の立場から感想を書かれています。この文章に、いまの高校演劇が抱える矛盾がよく表われていると思います。

コンクールで勝つことを目的にしているから、受けがいい既成戯曲を探してくるという悪循環なのではないでしょうか。部員のオリジナル戯曲なら、それを表現すること自体がモチベーションになると思いますが、「Okasonの日々雑感」を読むと、それを高校生にわからせるのは難しいのでしょうか。

もし戯曲を書ける部員がいないのなら、演劇部にこだわらず、全校生徒に対して募集してみてはどうでしょう。将来の劇作家の発掘にきっと貢献すると思います。全国高等学校演劇協議会規約では、「生徒創作は演劇部員でなければならない」とは書かれていません。演劇は総合芸術なのですから、そもそも演劇部だけで完結させようという発想が間違いなのでは。映画部がキャストを外部に求めるように、演劇部は戯曲を部員以外の生徒に書いてもらえばいいと思います。

誤解のないよう書きますが、私は既成戯曲が絶対ダメと言っているわけではありません。既成戯曲をいかに演出するかという楽しみも演劇にはあります。けれど、それをコンクールの俎上に載せるためには、審査員が既成戯曲を読み込んでいて、どこまでが演出による成果なのかを見極めなければなりません。戯曲と演出の線引きはただでさえ難しいのに、稽古に立ち会っていない審査員がそんなことをわかるわけがない。同じ理由で私は日本演出者協会の若手演出家コンクールを批判したことがあります。高校演劇も同じことを感じるのです。

顧問が戯曲を書く気持ちはわからないでもないですが(それぐらいのメリットがないと部活の顧問なんかやってられない?)、本当に表現をしたいのなら学校とは別にカンパニーを旗揚げしたり、戯曲賞に応募すればいいんじゃないかという気がします。顧問が戯曲を書くというのは、高校野球なら監督がピッチャーを務めるのと同じだと思います。

高校演劇関係者の方のコメントをお待ちしています。

(参考)
続・高校演劇の不思議
続々・高校演劇の不思議
高校演劇の不思議4


高校演劇の不思議」への11件のフィードバック

  1. 山手城南地区情報・ひら

     記事を興味深く拝見しました。高校演劇コンクールで「公平な」審査を行うことは、できないと考えています。生徒創作であっても、顧問やコーチの助言はあり得るし、そもそも「創作」のかなりを占めるのは、以前にどこかの高校生が演じたものやテレビや漫画の設定を若干変えただけの焼き直しなのが実態です。
    (それが初めて高校演劇を見たプロの演劇人に新鮮に見えて、選ばれることもあります)。
     それに、多くの高校生は、表現したいことがそれほどあるわけではなく、友達と芝居をして、楽しく時間を過ごしたいだけであったりします。
     では、果たしてコンクールなど必要なのかと問われれば、やっぱりあった方がよいと思います。予算や会場や人員が限られている中で出場校をセレクトしなければならないとすれば、抽選よりは審査の方がまだ妥当な方法でしょうし、指導者に恵まれない無名の才能が発掘される機会にもなります。
     スポーツの大会は、ある意味公平ですが、指導者もグランドもない、部員三人であとは手伝いの初出場校が、甲子園で優勝することは絶対ありません。
     その点、高校演劇は、選手の出場登録もなく、何人リングに上がってもよくて、場合によっては、監督やコーチも乱入して構わない、それでも、たった数人の素人チームが優勝することもある、ドーピングもOKの、制限時間付き異種格闘技だと思えば、結構見て楽しめるのではないでしょうか。
     私の地区では、10月9・10日に、こまばアゴラ劇場で大会が行われます。ぜひ一度覗いてみて下さい。

  2. 藤本瑞樹

    うーん。
    そもそも「大会」が必要なのかなあ、と思いますね。
    そのむかし、高校生だった時代に、
    「今年は九州大会目指して頑張ります!!」
    みたいなことが書いてあったのを見て、
    同世代ながらバカらしいなあと思ってしまいました。

    もっとフェスティバルな感じになればいいのに。
    上演時間も制限なく、上演日も週末の何日かだけってわけじゃなく「この月の毎週末に!!」みたいな感じで、
    もっと「その場を楽しむ」雰囲気を創ったほうが、彼らのためにもよいのではないかなあ、と。
    まあ、彼らの「ため」なんて、ほんとうのところはよくわかりませんが。

    北九州ではある高校の先生がイニシアチブを取って、
    毎年3月末に「共演祭」と銘打って、いろんな高校が集まって制限なく上演できる機会を作ってくださってます。
    その共演祭に参加する高校が、大会に比べると圧倒的に少ないのが、まあ、「現実」というやつなのかもしれませんが。

  3. Okason

    興味深く読ませていただきました。私の意見を述べさせていただきます。

    「コンクールで勝つことを目的に、受けがいい既製戯曲を探してくる悪循環」とありましたが、受けがいい既製戯曲はすでに多くの人が上演していて、そういったプロと比較されるリスクがあります。うまく上演しても、それがプロの真似であれば、客には受けても審査員には受けません。審査員は目が肥えていますから、受けのいい既製台本でも、そこに何らかの目新しさ(高校生らしさ?)がないと評価されないと思います。高校演劇の場合、この目新しさという点で比較すれば、絶対に創作台本の方が有利です。ただ生徒創作か顧問創作かでいえば、顧問創作の方が完成度は高いことが多いので、それを同じ俎上で審査の対象にするのは不公平かもしれません。

    また、台本を書ける部員はなかなかいません。書く意欲があっても、結局形にまとめられないのです。書けても完成度が高いとは限りません。まあ、書くことは技術に寄るところもありますし、台本は誰でも書ける物ではありませんから、ある意味当然なのですが。だから顧問が台本書けるところは顧問創作になるのでしょう。

    まず、高校生には舞台上で演じたい、表現したいという衝動(欲求)があると思います。昨今のお笑いブームにもつながるかもしれませんが「何かやって周りにウケたい」という気持ちではないでしょうか。高校生によっては、それがヒップホップのダンスだったり、バンドだったりすると思います。でも始めは自分たちのオリジナルではなく、大抵はコピーからですよね。そこからオリジナルの創作へ向かうのは、ほんのわずかだと思います。だから、表現したい欲求と、台本を書くことは別物と私は考えます。

    高校生に、舞台上で演じたい、表現したいという衝動があるならば、私は既製台本でも創作台本でも、同じ俎上でコンクール形式でいいんじゃないかと思います。台本は演劇の重要な要素です。でも、結局は演じる熱意、表現欲の強さじゃないのかなと、私は思います。

  4. 夏井孝裕

    大会の審査員を何度か務めた経験から申しますと、
    「素晴らしい戯曲があれば、役者の演技以前に物語の力で評価を得てしまいます。」
    ということはまずありませんね。
    同席したほかの審査員の方々(プロ、アマ含む)にも、
    どこまでが戯曲の力でどこからが生徒の力かがわからなくなっている人はいませんでした。

    審査員には事前に上演台本が配布されます。

    逆にある県の県大会では、
    「生徒が頑張って書いたものだからという理由で生徒創作作品に点を甘くつけることはしないで下さい」
    いわれたことがあります。

    既成戯曲の方がむしろ勝ちにくいようですね。戯曲に演技が追いついていないことが客観的にわかりやすいからです。
    全国大会に勝ち進む既成戯曲が少ないのはそういうことです。

    (ちなみに、成井豊さんや高橋いさをさんの作品や、『祭りよ、今宵だけは悲しげに』のような高校演劇の定番作品は審査する側が見飽きていることがあったりします。もうこの作品見るの10回目だ、というような嘆きも耳にしました)

    荻野さんの疑問自体はもっともです。私も部門別に審査することに反対ではありませんが、なぜ生徒創作、顧問創作、既成戯曲が一緒に審査されているかというと、「それでは不公平すぎる」という声が当事者である学校側からあがっていないからであって、不公平感はそれほどもたれていないのが実際のところではないでしょうか。

    実際に大会をご覧になってはいかがでしょうか。

  5. 荻野達也

    ひらさんの「異種格闘技」という例えはわかりやすいですね。

    そこまで割り切って考えられるのなら、藤本さんの書かれているように「大会」ではなく「フェスティバル」にして上演機会をもっと増やしたり、学校間の壁を取り払った複数校アンサンブルによる合同上演が許されればいいのにと思います。

    私のいた遊気舎は大阪のスペースゼロを本拠にしていましたので、この劇場が1990年から始めた「HIGH SCHOOL PLAY FESTIVAL」(HPF)をよく知っています。これは上演時間自由、合同上演OKのなんでもありフェスティバルです。同劇場を主宰していた古賀かつゆき氏の文章を引用します。

    ======================================================================
    HIGHSCHOOL PLAY FESTIVAL(HPF)は、伝統の高校演劇コンクールの審査を担当するうちに『君たち、そうじゃないだろう? 本当は違うんだろう?』と、しきりに思えてきて考え出した企画であった。演劇の甲子園といわれてきた学校単位で競うコンクールと異なる大きな特長は、学校合同、有志の結集、いずれもOKだったこと。日頃、隔絶状態にある女子高の生徒も有志結集のグループに参加して男子生徒と一緒に芝居を作った。本番の会場はまさにお祭りの盛り上がりを見せたものだ。また、時間制限なし。昼夜2回公演の決行などが挙げられる。金蘭会、追手門学院などは3時間から4時間に迫る大作を堂々と仕上げ、それを昼、夜2回上演するのだ。その圧倒的パワーには高校生だけでなく、多くの大人と演劇関係者が息を呑んだ。特長として更に、美術、音響、照明の全てを高校生自らが手掛けること。それは市民会館など一般のホールでは考えられない相談である。
    ======================================================================

    続きは古賀氏のサイトでお読みください。
    http://www1.kcn.ne.jp/~himasiyu/p-zerokiroku/p-zero-hpf/hpf-1.htm

    HPFは同劇場が閉鎖したあと2003年からスタイルを変え、大阪の小劇場演劇と連携した運営になりました。高校演劇に欠けていた概念「制作」のスタッフワークも加わりました。私は制作が公演に不可欠なポジションだということを、高校時代から生徒に体感させてほしいと思います。

    大会運営は顧問の負担だと思いますが、生徒をもっと制作として参加させることは出来ないでしょうか。演劇部員は確かに役者志向だと思いますが、探せばスタッフ志向の生徒も必ずいると思います。「フェスティバル」という形で他校の上演をもサポートするような生徒の制作者集団が出来れば、将来の演劇界に大きく貢献するでしょう。

    Okasonさんの「プロの真似であれば、客には受けても審査員には受けません」、審査員を務められた夏井さんのご意見は参考になります。確かに戯曲と演技の乖離がわかる上演も多いでしょう。ちょっと気になったのは、過去の生徒創作の秀作(晩成書房の『高校演劇Selection』収録作品など)を上演した場合はどうかなという点。同じ身の丈の生徒創作ですから、かなり厳正な審査が求められるだろうと思います。

    大阪時代は高校演劇に触れる機会もあったのですが、東京に来てからは遠ざかっているので、今度手近な大会を覗いてみたいと思います。

    ちょっと脱線するかも知れませんが、「フェスティバル」で連想したのですが、東京の顧問の皆さんは全クラスがミュージカルを上演する都立青山高校の外苑祭はどう思われていますか。一説には観客動員6,000名とも言われていますが。

  6. サカシタナヲミ

    勝った負けた は高校演劇でなくても口にするしはっきりと感じる
    「他からの決定的な評価」で 勝ったか負けたか にならないだけで アマチュアでもプロでも 他人の芝居を観たとき 自分たちの芝居を考えて 勝った 負けた と明確に認識するのではないか
    もちろんそれは様々な点で
    だから
    高校演劇以外 勝った負けた がない
    というのは 高校演劇以外しい他人から明確に勝ち負けを断ぜられることがほぼない というだけのことだ 
    自分たちの胸の内にははっきりとあるのではないか 
    それならば「高校演劇以外勝った負けたはない」という言葉は高校演劇をバカにしている というか 高校演劇でない自分たちをそういう勝ち負け意識から関係のないところに存在しているかのように語るきれい事ではないのか
    高校演劇でもそうだが 自分の劇団でも 私は明確に勝ちたいもしくは負けるわけがないと思う劇団もあるし 作品毎に勝ち負けを痛切に感じる
    他劇団の演劇人からも「勝ったと思った」などという言葉(逆もある)もよく聞く し それは「高校演劇以外云々」とバカにされているかのようなニュアンスで捉えてはなくクオリティーや路線への自負と研鑽を支えるものだ

    皆さんはそういう経験がないのだろうか
    (この勝ち負けは様々な物差しがあるということは言うまでもないのだが)

  7. 荻野達也

    作品へのプライドは表現者なら誰もが抱いていることで、それに対して「勝ち負け」という言葉を使うのは個人の自由です。高校演劇で上位大会へ進むことが「勝ち」だと思うのなら、それはそれでいいでしょう。けれど、表現の世界にはもっと様々な「勝ちパターン」があるということを、この議論に参加されている方々は考えていると思います。

    サカシタさんも「様々な物差しがある」と書かれているとおり、プロフェッショナルのカンパニーであっても、観客動員、演劇賞、助成金の採択などで客観的な差がついています。しかし、その物差しの基準は一律ではありません。とある演劇賞で相手にされなかった作品が、別の演劇賞で受賞することもあります。観客動員が少なくて興行的に苦しんでいても、だからこそ助成金に採択されたりします。本当に作品に自信があるなら、一つの物差しだけを絶対視せず、信じた道を歩けばいいと思います。

  8. 夏井孝裕

    サカシタさんは、ここの議論にではなく、

    「高校演劇の世界」というのは実に特殊で、演劇でありながら勝った負けたを言い合うのは高校演劇だけ。

    という古城氏の言葉に反発されてらっしゃるのだと思いますが、あの発言が高校演劇をバカにしたものであるかはちょっと、受け取り方次第ですね。

    紹介されているもとの文にある
    「あの高校の演劇部は強い、弱いといういいかた」をするのはたしかに高校演劇以外にはほとんどないと思います。

  9. 某日観劇録

    芝居よりも面白いかもしれない高演協騒動顛末

    うっかり見逃していましたが、fringeのトピックで紹介されていました。「全国高等学校演劇協議会公式サイト閉鎖・再開の経緯を運営担当者がリポート(2005/4/

  10. 誠博客

    青森中央の最優秀賞はおめでたいが、素直に喜ばないでおく

    青中央が演劇最優秀/高総文閉幕(東奥日報)

    今回も畑澤聖悟関連のネタ。
    八戸で行われた高校演劇の全国大会は青森中央高校『修学旅行』が最優秀賞(優勝)を受賞して閉幕した。この台本を書い(て、演出もし)た畑澤センセは創作脚本賞も受賞したとのことだ。この芝居

  11. S

    私は高校時代に演劇部に所属し、また10年たった現在でも関わっている者です。

    いろいろなご意見があるようですが……

    >>演劇の60%は戯曲で決まります。素晴らしい戯曲があれば、役者の演技以前に物語の力で評価を得てしまいます

    >>(演劇部の顧問が本当に表現をしたいのなら)学校とは別にカンパニーを旗揚げしたり、戯曲賞に応募すればいいんじゃないかという気がします。顧問が戯曲を書くというのは、高校野球なら監督がピッチャーを務めるのと同じだと思います。

    この部分に、私はほぼ完全に同意です。

コメントは停止中です。