この記事は2009年3月に掲載されたものです。
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福岡から来た「なにもしない冬」を観て

カテゴリー: 京都下鴨通信 | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 田辺剛 です。

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過日、京都で上演された福岡市文化芸術振興財団プロデュースの「なにもしない冬」を観ました。[作=土田英生(MONO)、演出=山田恵理香(空間再生事業劇団GIGA)]

とても面白く拝見しました。
土田さんの脚本を別の方が演出する舞台というのは、今までにも何度か観たことがありますが、たいていは本家MONOの演出に似たものとなり、そうであればMONO自身の上演でいいではないかと思うことがほとんどでした。しかし今回の山田さんの演出は、チラシを見た時点でずいぶんと違うことになるのではと予想はしたのですが、土田さん自身の演出とは違う切り口で見事に脚本を切ってみせたのだと思います。

確かにいつものMONOのようなリズムや会話の面白みという部分は希薄かあるいは犠牲になっているところもあるかとは思いますが、山田さんの演出では「なにもしない冬」にそんな世界観があったのかと気づかされ、逆にMONOによる初演では見ることができなかった劇世界の姿を見ることができました。同じ戯曲をこんな別の可能性もあるよとそれを見せる作業、それは作家を兼ねない演出家ならではの仕事なのだと改めて思いました。そして福岡にこういう素敵な演出家がいるのかと大変興味を持ったのです。

主催は福岡市の財団ということなのですが、この京都公演には苦労も多かったかと思います。以前に別の政令市の担当者と話した時に、そこでのプロデュース公演が面白かったものですからぜひそれを他都市でも上演されてはと言ったところ、他都市に持って行くのは上の人間が許さないのだと聞き驚きました。地元での上演でなければ観客としての市民に還元できないからと。今回の福岡市の財団内部でそういう話があったかどうかは知りませんが、この京都公演は地元で取れた農産物を他の地域でアピールするのと同じことで、そこに行政が積極的になることや後押しすることは十分に意義があると思います。近隣というほど京都と福岡は近くありませんが、いきなり東京に持って行くより近いところからじわじわと攻めるのも現実的ではないでしょうか。

人のつながりをたどりつつ、構築しつつ地元の農産物(舞台)を広めていくこと。最近、わたしは舞台芸術を「サービス商品」よりも「農産物」に近いものとして考え直しているのですが、またまた考えるきっかけをもらったような気がしました。


福岡から来た「なにもしない冬」を観て」への7件のフィードバック

  1. 高崎大志

    >他都市に持って行くのは上の人間が許さないのだと聞き

    このように言ったことが本当だとすれば、まったくセンスのない方だと思います。
    鑑賞事業だけが、文化行政だとおもっているのでしょうね。
    5年前ならともかく、今もそういう方がいるとすれば、私も驚きです。

    政令市クラスに共通する地域演劇の課題は「他都市公演に耐えるクオリティの作品を創る」でしょう。
    例えば、京都の優れたカンパニーが他地域で公演することで、どれだけ京都という地域の芸術文化的なプレゼンスが高まっているか、容易に想像がつくことと思います。

    私も脚本の重要な部分切り捨てているように思えたことが気になっていましたが、作品を好意的に見ていただいて嬉しい限りです。

  2. 大橋敦史

    素敵な公演だったのですね。立ち会いたかったなー。

    地元の観客に作品を見せるのが行政サービスという考え方は、むしろジャパンスタンダードなんじゃないでしょうか。納税者の多くもそう思っているかもしれません。

    でも、政策としては県道を県民にしか利用出来なくするようなもので、魅力ある地域づくりのためにはセンスがないとしか言えないですよね。

  3. 松浦友

    見逃してしまい、大変残念に思っています。
    僕も今回の公演は、どこかのカンパニーが単独で来たというのではなく、財団単位で持ってきたということにとても注目していました。
    府の施設での事業企画の仕事を3月で離れることにはなるのですが、8月にやった「三人姉妹」を外に持って行けないかどうか奮闘中です。
    お三方の発言に励まされました。微力ながらやれることをやろうと思います。

    こういう企画が成功していけば、文化行政の担当者の考え方も変わっていくだろうと思います。

  4. 田辺剛

    コメントありがとうございます。
    念のため誤解のないように申し上げると、その担当者の方自身は他都市に持って行けるものならと、その方が拒んでいたわけではないので一応。

    「なにもしない冬」について、わたしが「犠牲」という言い方をしたので誤解を招いたかもしれませんが、高崎さんがおっしゃる「脚本の重要な部分切り捨てている」とまでは思わなかったです。つまりはテキストのどこに光をあてるかという焦点が「いつものMONO」とは違ったということで、光が当たらなかったからと言って「捨てられた」とまでは言えない。誉め過ぎかもしれませんが、言うならば「いつものMONO」を俯瞰できる場所を作り出した、あるいは丸ごと包み込むような演出だったと思っています。

  5. 高崎大志

    >その方が拒んでいたわけではないので一応。

    はい。上司の方を的にしています。

    >「脚本の重要な部分切り捨てている」とまでは思わなかったです。

    ここは、人によって変わる部分があるかも知れません。

    私は、土田さんの脚本は通常の会話が積み重なる中で出てくる齟齬や、その齟齬を起点として描き出す人間模様を計算していると理解しているので「重要な部分を切り捨てた」と理解しています。
    と、同時に、別方向からのあらたな脚光をあてたとも理解しています。

    どちらに重きを置くかは、人によって違うと思いますし、高崎個人としてどちらが良かったのかは、判断を保留しているところです。

    京都の客席がどうであったのか、この芝居への自分なりの判断を持つために、情報収集しているところです。

  6. 田辺剛

    予想外にコメントを多くいただきまして、改めてありがとうございます。地方自治体の行政と舞台芸術の関わり、つまりは地方自治体における文化行政っていうことになるのでしょうが、高崎さん大橋さん松浦さんのコメント、またこのことで個人的にメールもいただいていろいろ考えています。

    例えば地方自治体の文化財団などが作品をプロデュースするときに「老若男女誰でも楽しめる間口の広い作品」と「かつてないような独創性と実験性を秘めた表現者やその作品」のどちらを後押しするのかという二者択一の問題。わたしはこの問題を「二者択一」として考えること自体がそもそも誤りだろうと思っているのですが、どっちを選ぶのかという問題になぜだかすぐなってしまう…など、その他いくらでもテーマは出てきそうです。

    ただ、地方自治体やその財団のなかでも旧来の考えにとらわれずに「文化」や「舞台芸術」を考え、積極的かつ具体的に盛り上げていこうという意志ある人と最近出会うことが多くあり、この「なにもしない冬」もそうですが、それぞれの地域独自でいろいろな表現が生み出されていくのではないかと思います。そうしたなかで自分の地域である京都で稽古場施設が有料化される話にはずいぶんと失望するのですが。

    今後も京都に限らず、西日本が中心にはなるかもしれませんが、いろんな地域の状況を注目しつつ、僭越ながらこの場でもご紹介できればと思います。

    ちなみに本文で「以前に別の政令市の担当者と話した時に」とありますが、これは広島のことかと聞かれました。広島のことではありません。1月2月にわたしが広島で滞在製作をしていたのでそういう憶測が出たのかもしれませんが、そんな最近の話ではないので。広島の名誉のために補足しておきます。

  7. 高崎大志

    >「老若男女誰でも楽しめる間口の広い作品」と「かつてないような独創性と実験性を秘めた表現者やその作品」

    「老若男女誰でも楽しめる間口の広い作品」これは、やはりまだ地域演劇が十分に根付いてない地域で有効であり、後者は地域演劇が十分に根付いた地域で目指す方向なのでしょうね。
    田辺さんのおっしゃるとおり、この二つの間にもいろんな選択肢があるでしょうし、まったく違うベクトルも存在しうるでしょうね。
    二つしかないということはないでしょうが、この二つが目立つので、他の選択肢に気づかないということかもしれません。

    行政がお金を出してつくる場合は、商業性以外の目的を明確にすることが重要で「なにもしない冬」についても、たとえばなぜ京都なのかという質問には、様々な回答が用意されていると思います。

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