この記事は2011年7月に掲載されたものです。
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「芸劇eyes」と公共ホールの役割について

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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王子小劇場代表の玉山悟氏が、劇場公式ブログに「どうすればもっと安泰?」というタイトルで、東京芸術劇場が水天宮ピットで行なった芸劇eyes特別編「20年安泰。」について意見を書いた。これをTwitterで紹介したところ、いくつか意見のやりとりがあり、この機会に公共ホールと民間劇場の棲み分けについて改めて問題提起したく、Togetterでまとめさせていただいた。

まず、玉山氏は「20年安泰。」自体を批判しているわけではないと思う。「芸劇eyes」は今回の特別編も含め、ある程度知名度のあるカンパニーが選ばれているわけで、全く無名のカンパニーを種や芽の段階で選んでいるわけではない。そうした未知数のカンパニーを公共ホールが自主事業で扱うことは困難なため、その育成部分を担っている民間劇場の重要性を訴えている。この点については誰も異論ないはずだ。私もこうした民間劇場へのリスペクトを忘れてはならないと考えており、助成制度や劇場法(仮称)の議論でも、この思いがベースになっている。

次に、ある程度知名度が出てからの劇場選択に移る。玉山氏のような民間劇場を運営する立場としては、育てたカンパニーに今後も劇場を使ってもらいたいのは当然だろう。どのカンパニーも最初は動員が少なく、公演日数も限られる。短い公演期間は、使用料や立ち会いの面で劇場にとっても負担で、長期に借りてくれるところを優先したほうが楽に決まっている。それを敢えて短く区切って貸すのは、新しい表現者に発表の場を提供するという劇場の使命感からだ。

そうして動員が伸び、公演日数も増やせるようになったら、本来は育ててくれたその劇場でロングランすべきだと私は思う。もちろん、カンパニーが新しい劇場へ進出するのは自由だが、そこでは公平な条件での競争が必要だ。ここで玉山氏が言いたいのは、公共ホールが自主事業としてカンパニーを招聘する傾向が強まっていることだと思う。2007年にdie pratzeの真壁茂夫オーナーが発表した、公共ホールによる民業圧迫への指摘と同じ趣旨だ。

@keihibinoさん(成蹊大学准教授・日比野啓氏)は、「それぞれができること、できないことがあって棲み分けがされているんだから、仕方ないことだと私なら思うけれど」と書いているが、玉山氏が言いたいのは、その棲み分け自体が曖昧になって、公共ホールが民間劇場の領域に侵食してきているということだと思う。だから「仕方ないこと」ではなく、公共ホールが是正すべきことなのだ。

@keihibinoさんは「本多や紀伊國屋に行っても文句を言うんだろうか?」と書き、@kt_ekimaeさん(東京芸術劇場・樺澤良氏)も同感しているが、これは論点が違う。本多劇場や紀伊國屋ホールに行くときは貸館のはずだ。公共・民間・ハコの大きさを問わず、カンパニーが正規の劇場費を払って貸館公演するのなら別に文句はない。今回は公共ホールが自主事業に招聘することを問題にしているのだ。

公共ホールが名実共に制作する公演ならいいが、いま自主事業と銘打たれていても、実際はカンパニーが制作したものをそのまま上演する形態が圧倒的に多い。これは自主事業の名を借りた貸館にほかならない。カンパニーにとっては、無料または格安な貸館となんら変わらない。カンパニーは劇場費が安く宣伝効果があるほうを選ぶだろうから、同じ貸館なら公共ホールに公演が移行してしまう。これはまさに民業圧迫だと思う。

公共ホールの自主事業なら、民間劇場に出来ない企画でないと意味がない。真壁氏が書いているような劇場リハーサル期間をふんだんに設けた公演、劇場がリスクを背負ってロングランに挑戦させるような公演など、民間劇場の関係者が納得する企画にしてほしい。「芸劇eyes」本編に意味があったのは、ロングランや中劇場へのトライアルという意図が見えたからで、最低限そうした目的が必要だと思う。初年度の09年は、「芸劇eyes」に急遽参加するため、予約していた民間劇場を断わったカンパニーもあったそうで、大型企画になればなるほど、公共ホールの業界への説明責任が問われると思う。

ネット上で「20年安泰。」の感想を見ていると、この内容で前売2,000円は安いという声があったが、それは逆で、私はこの価格だからこそ公共ホールが手掛ける意義があると思う。手ごろなショーケースイベントとして、東京芸術劇場の持つ発信力で新しい観客を開拓することがこの事業のミッションである。@gunzam1969さん(Next代表・郡山幹生氏)が書いているように、「小劇場関係者内で話題になるだけなら王子でもアゴラでも十分」だと思う。

@jpai2さん(日本パフォーマンス/アート研究所・小沢康夫氏)のように、才能がブレイクスルーするなら「公共でも民間でもどちらでもかまわない」という意見もあるが、アーティスト自身はそうでも、それを支える創造環境の整備は重要だろう。これは突き詰めると、アーティストばかりが注目され、制作者の必要性が顧みられなかった日本の演劇界の脆弱性にもつながる話だと思う。

@keihibinoさんは「民間と公共の立場の違いで公共のほうが恵まれている、ってことなんだから」と書いているが、そもそも公共ホールと民間劇場の役割分担はどうあるべきなのか、根源的な議論が不足しているわけで、これは現状を容認しただけの意見だと思う。私はこの部分を明確にしておかないと、劇場法(仮称)に伴って、制作機能を持たない公共ホールの〈名ばかり自主事業〉が日本中に蔓延してしまうのではないかと危惧している。真壁氏が書いているとおり、都市部に公共ホールはそんなに要らないはずで、なぜその費用で稽古場やタタキ場をつくらないのか、本当に疑問に思う。

カンパニーも劇場費が安いほうへ流れるのは仕方ないとは思うが、目先の利益だけで判断せず、自分たちがどこで上演すべきなのかを常に自問自答してほしい。