終演後、いま観たばかりの作品を戯曲で確認したいと思うことが、私の場合は3年に一度くらいある。手元に残しておきたい珠玉の台詞、どうやって稽古したのかわからない絶妙な演出に出会ったときなど、その場で戯曲を確かめたくなる。フェスティバル/トーキョー10(F/T10)公募プログラムで11月24日に拝見したマームとジプシー『ハロースクール、バイバイ』は、まさにそんな作品だった(残念ながら物販はなかった)。
舞台は海が近い「かもめ中学校女子バレーボール部」。これまでの作品が14歳を描いていたように、ここでも14歳の中学2年生たちが描かれる。試合時間に見立てた90分の上演中に、転校生を中心とした部員たちの身近なエピソードや練習風景が、短いシーンのカットバックで綴られる。実際のバレーボールは使用せず、演技だけの「エアーバレーボール」で表現した。
このカンパニーの作品テーマは「記憶」だ。カットバックに加え、過剰なほど繰り返される同一シーンのリフレインを最初はあざとく感じるが、それが登場人物たちそれぞれの記憶の断片だとわかると、身体中に衝撃が走った。これは彼女たちの記憶を再生する作業なのだ。この作品は単に物語を上演するのではなく、集合体の記憶を共有する作業であり、それがこの演出手法になっている。記憶という行為そのものを舞台化しているのだ。カットバックやリフレインは技巧ではなく、このカンパニーにとって必然なのだ。この点を評価しなければならない。
リフレインが非常に多いため、時間軸に実際のシーンをマッピングすると、数えるほどしかないはずだ。戯曲を入手したら、実際に確認したいと思ったほどだ。このカンパニーでは、シーンは物語の構成要素ではなく、記憶のパーツである。人間がどうやって記憶するのかを観客に追体験させているのだ。私には単なる演劇の上演を超え、劇場の中に人間の脳の海馬を再生させ、それを観客全員で共有する試みに思えた。
映像作品のリフレインがカメラワークで視点を明示的に切り替えるのに対し、演劇ではそれが観客の意識に任されるため、限られたシーンで効果的に使うしかない。それを敢えて演出を変えながら多用することで観客に強烈な疑似体験を与え、登場人物たちと集合体の記憶を共有しているかのような感覚に陥らせる。リフレインの回数が多いほど、取り巻く人々の思いが凝縮され、それを共有する観客は感慨を覚える。そこから生まれる観客自身の新たな感情。当日パンフで作・演出の藤田貴大氏は、これを感情の「蘇生」だと記している。
もちろん、作品はテーマだけではなく、なにを伝えるのかも重要だ。劇評サイト「ワンダーランド」のメールマガジン200号記念鼎談「2010年、超新星は小劇場を更新するか?」で演劇ジャーナリストの徳永京子氏は、マームとジムシーを始めとした若手カンパニーに通じるものとして、「飛び抜けた切実さ」「作品の核にある『これを表現しなければ苦しい』というヒリヒリした初期衝動」を挙げている。
この作品では運動部女子の日常に加え、転校生に象徴される「別れ」への無力感が強く描かれている。親の都合で翻弄される転校生に加え、家業の銭湯を廃業する男子生徒など、14歳ではどうにもならない世界が重い記憶として残る。試合自体も結果は負けで、バラ色の思い出とは言えない。でも、それがリアルな記憶というものだろう。再び東京へ引っ越しが決まる転校生。特に転校を経験した人には胸に迫るものがあるだろう。タイトルの「バイバイ」は、誰もがたどってきた14歳の世界への思いが込められている。
私は今回初見だったので、演出手法への感動は割り引いて考える必要があるかも知れないが、藤田氏の場合は記憶というテーマと演出手法が一体化しており、一部で書かれているチェルフィッチュとの共通性は感じない。むしろ、テーマと不可分の演出手法として、マームとジプシーのほうが必然性を強く感じる。描く世界を間違えさえしなければ、この完成度は揺るがないのではないかと期待する。なにより海馬の底を探れば、私たちが共有出来る原体験、原風景はまだ見つかるだろう。次回新作から14歳の世界を離れるそうだが、新境地を目指していただきたい。
2010年の小劇場演劇の大きな収穫として、記録されるべき作品だと思う。