この記事は2005年5月に掲載されたものです。
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オールツーステップスクールはなぜアフタートークをしなかったのか

カテゴリー: fringeのトピック以前 | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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こまばアゴラ劇場でオールツーステップスクール『メイキング・オブ・チェーンソー大虐殺』を観ました(5月5日ソワレ)。多くの方が指摘されているとおり、チェルフィッチュとスタイルが類似しています。チェルフィッチュのほうがさらに重層的で確信犯ですが、偶然とは思えません。作・演出の浅野晋康氏は明らかにチェルフィッチュにインスパイアされていますね。個人サイトの「NOTE」(2月9日付)にはこんな記述があります。

んだけど、そういう作品との出会いが僕にとってはすごく大切で、ごくまれにしかないことなんだけど、かつてそうして出会ったひとつチェルフィッチュの岡田さんが岸田戯曲賞を受賞というニュース。素晴らしい!「三月の5日間」は本当に傑作だと思うので、再演時にはたくさんの人が観るといいなと思う。演劇好きな人じゃなくてもニュートラルに楽しめるっていうのが僕の感想だけど、それは、反戦ってテーマを、落語の形式でストレスなく観れたからだったと思う。演劇作品を観て、嬉しくなったのは初めてだったから、ていうか本当、オールツーどうするよ?ってことですけどね。

この公演は岡田利規氏自身も足を運んでいて、

似ているとか似ていないとか一言で断じることはできないよ、これこれこういうところは似ているし、これこれこういうところは似ていないし

と書いていますが、チェルフィッチュに影響を受けた方が同じスタイルで表現することの意味を考えると、私はぜひ浅野氏のアフタートークを設定してほしかったと思います。浅野氏がどんなアプローチでこのスタイルに到達したのか(選択したのか)、それを訊いてみたかった。このスタイルに普遍性を見出したからこそ選択したはずで、彼の考える普遍性を彼自身の言葉で聞いてみたかった。制作過程を伝えるウェブログは出演者も含めて複数設けられていますが、そうした肝心なことが書かれていません。スタッフ・キャストでチェルフィッチュを観ている方は多いはずなのに、この部分を説明すべきと考えた方は皆無だったのでしょうか……。

物語で重要なのは「どうやって語るか」ではなく「なにを語るか」です。「どうやって」を紹介することはネタバレにはなりません。平田オリザ氏が現代口語演劇をいくら説明したところで、それが青年団のネタバレではないように(その意味で「どうやって」を紹介出来ないシベリア少女鉄道は、私は演劇ではなくマジックショーだと思っています)。なんの前置きもなしに伝わる作品もありますが、そうでない作品には説明する努力が必要です。初期の青年団が戦略的に説明を繰り返したのを、もうみんな忘れてしまったのでしょうか。

チェルフィッチュを未見だった観客は、この不満をいっそう募らせたことでしょう。ウェブログ「デジログからあなろぐ」がその点を明確に書いています。

お芝居で何かを伝えたいという意識が無いなら、せめて説明してほしいと思う。
自分達が何を考えているのか、どういう理由でこういう作品になったのか・・・芝居から何も分からなくて、その状態で放り出される観客・・・解釈を要求するのは勝手だけど、道具ぐらい提供してあげて欲しい。
それが、演劇を市民から遠ざけている最大の理由・・・私はアゴラの年間パスポートで観ているので、まぁいっかって思えるけど、芝居を好きでもない人が何かの拍子で観て、放り出されたら「お芝居分からん」っていう感想で終わりますよ。

だから、自分達がやっていることが観客に伝わらないという核心があるのなら、他のところで説明責任を負って欲しい。
伝える気が無い人はそれで良くて裏側で勝手にしていてという感じですが、それが他人に伝わるか伝わらないのか分からないという一般の感覚を失っている人の作品というのが一番厄介だと思う。
その事で言えば、五反田団の前田さんが行ったアフタートークは面白いと思ったし、確か彼がアフタートークを行おうと思ったきっかけも、観客と演劇の関係のあり方が発端だったはず。
説明できないものを作るというのは自己満足だし、それが明らかになり、淘汰するきっかけとしてもアフタートークのような製作側の意図を聞く場というのは今後大切かなと思っています。

120%同感。アーティストのダメなところをズバリ指摘しています。

チェルフィッチュだって、小劇場を見慣れているからこそ新鮮なわけで、初めて演劇を観る人にはかなりハードルが高いのも事実です。新しい才能であるのは確かだけれど、観客を選ぶ表現であることを関係者は自覚する必要があると思います。ターゲットのニーズを配慮せずに、アーティストの側に立ちすぎたオススメは危険です。

アフタートークはその緩衝材であり、この種の作品には特に必要だと思います。演出家が語りたくないなら、評論家でも主催のアゴラ劇場スタッフでもいいから、作品について語る時間を設けるべきでしょう。もちろん自分で解釈したい観客もいるでしょうが、そうでない観客に対して道案内する配慮が小劇場は少なすぎると思います。事前の情報が乏しく、観客にとって鑑賞が賭けに近い演劇というジャンルは、この点に真剣に取り組む必要があります。現代美術だって、キュレーターによる解説ツアー(ギャラリーツアー)を企画しているじゃないですか。


オールツーステップスクールはなぜアフタートークをしなかったのか」への2件のフィードバック

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