この記事は2008年7月に掲載されたものです。
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新国立劇場芸術監督人事について制作者として思うこと

カテゴリー: fringeのトピック以前 | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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新国立劇場の演劇部門次期芸術監督人事についての批判は周知のとおりです。報道を読む限り、選出プロセスが不透明で、財団側が事前に決めた人事を押し通した印象を強く受けます。新国立劇場運営財団は7月17日に「次期演劇芸術監督の選考とその考え方」という文書を発表しましたが、この中でも5月に開催された選考委員会の経緯が、毎日新聞東京本社版7月8日付夕刊記事と異なっているように受け取れます。

また、発表されているように鵜山仁氏不再任の理由が多忙によるコミュニケーション不足だとしたら、兼任で多忙になることがわかっているオペラ部門の尾高忠明氏や、舞踊部門のデヴィッド・ビントレー氏を選んで大丈夫なのかという、率直な疑問を覚えます。その点に関する具体的な説明は現時点でなにもありません。

今回の批判は真っ当な問題提起だと思いますが、少し気になるのが任期3年(就任後1年足らず)という言葉だけが一人歩きしている感があることです。確かに芸術監督としての任期は3年ですが、その2年前から芸術参与として作品準備に当たるわけですから、実質的には任期5年と同じです。他劇場では芸術監督に就任しても、そこから作品準備を始めるわけですから、自分が選んだレパートリーに出来るのは1年半~2年後からでしょう。そう考えると任期5年と全く同じなわけで、3年と5年では印象がかなり違うと思います。今回の議論では、1期5年で終わるか、2期8年にするかという視点も必要だと感じます。この点は財団側も文書で強調しています。

この問題についてはさらに推移を見守りたいと思いますが、制作者の立場で今回の議論について少し書いておきたいことがあります。1点目は、蜷川幸雄氏が上記毎日新聞記事に寄せた次のコメント。

国立の舞台は、芸術的成果こそ問われるのであって、興行面であれこれ言われる筋合いはない。

これはそのとおりだと思いますが、だったら逆に興行面の成果はプロデューサーや制作スタッフのものであることを、演劇人全体にもっと自覚してほしいと思います。芸術面での成果に加え、満員御礼になったときの賞賛も演出家が全部かっさらっていくのは、私はちょっとおかしいと思います。

もちろん、芸術面での成果があるからこそ観客動員につながるわけですが、(失礼な言い方かも知れませんが)それほど華がない作品でも、宣伝努力で集客に結び付けているケースも多いと思います。興行面での功労者は、明らかに芸術監督や演出家ではなく、プロデューサーや現場の制作スタッフたちです。このあたりまえのことを、芸術面を担う人々はもっと認識すべきだと思います(認識しているのかも知れませんが、だったらそういう発言をもっとしていただきたいです)。

2点目は、今回改めて新国立劇場運営財団の組織図を眺めて、総務部、制作部、営業部が芸術監督の下に位置していることを知りました(直属ではないけれど、下に見えます)。芸術部門と管理運営部門は対等であるべきというのが私の持論ですし、1点目に挙げたように芸術面と興行面の成果が別物なら、いまの組織体系自体が矛盾しているのではないでしょうか。

永井愛氏が声明発表の記者会見で配布した「芸術監督予定者をめぐる理事会でのやりとり」(ステージウェブ)メモの中で、「制作者の権限強化」という発言があります。永井氏の言われたいことはよくわかりますが、中島豊チーフプロデューサーが言ったという、

「とんでもないレパートリーを主張されたりしたとき、制作も投票権のようなものを持ち、芸術監督の提案にNOと言えるようにする」

という構想も、制作者としては共感を覚えます。投票は極端な例だとしても、カンパニーの中でも主宰のトンデモ企画を制作者が思いとどまらせたケースはよくあるでしょう。互いが理解して話し合いで解決すれば済むことですが、そうしたスタンスを明確にするためにも、制作部は芸術監督の下に位置しないほうがいいと思います。

メモを読む限り、永井氏は「制作者の権限強化」自体が悪いと言っているのではなく、そうした重要事項がオープンな議論なしに水面下で進められていることを問題視されていると感じます。その点は全く同感で、制作者の立場で言うと、こういうときこそ制作部は大いに発言して、日本における制作者の地位向上を目指してほしいと思うのに、もったいないと感じます。制作部にとって逆にチャンスじゃないんですか。


新国立劇場芸術監督人事について制作者として思うこと」への2件のフィードバック

  1. 夏井孝裕

    一点だけ、荻野さんのご意見に異議を申し添えたいと思います。

    「とんでもないレパートリーを主張されたりしたとき、制作も投票権のようなものを持ち、芸術監督の提案にNOと言えるようにする」

    は、ヨーロッパ式の芸術監督制度を基準に考えるならば、非常識な発想といっていいでしょう。
    レパートリーの選定は芸術監督の権利ではなく、観客に対する責務だからです。
    演目演目が不調に終わったときに苛烈なバッシングを受けて劇場を去っていくのは芸術監督です。
    芸術監督に演目の最終決定をさせずに失敗時の責任をとらせるのはおかしいことです。

    「制作者は芸術監督と対等に」という荻野さんの主張は理解できます。
    レパートリー案に意見をすることはいい。ですが、
    「制作者としてこの演目はレパートリーに入れられません」と芸術監督の意向を一方的に却下するようなことは絶対にあってはなりません。
    ましてやそのための投票制度を準備するなど論外です。制作者として堂々と芸術監督に意見すべきです。
    制作者の地位向上ということをいうならば、こんな「みんなでNOをいえるようにしよう」というような情けない発想を安易に首肯してはいけないのではないでしょうか。

    まあ、それ以前に「NOをいわなければならない演目」というものが具体的にイメージしにくいのですが…。

    芸術監督とは何か、という段階からの議論がまだまだ必要のようですね。

  2. 荻野達也

    私も前提として、芸術監督とはなにかという議論が必要だと思います。

    投票は私も論外だと思っていますよ。新国立劇場でもこの騒動をきっかけに徹底的に議論し、その中で双方の役割を認識することを願っています。

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