激務で芝居から遠ざかっている中、これだけは観なければと駆けつけた作品がありました。風琴工房『hg』です。高校生のころ、水俣病を描いた石牟礼道子氏の『苦海浄土――わが水俣病』を読んで劇作家を志したという詩森ろば氏にとって、ライフワークとも言える作品だったのではないかと思います。
近年は社会派と呼ばれ、様々な事象を繊細なタッチで描いてきたカンパニーですが、症状に苦しむ多数の患者が同時代に生き、責任を問う損害賠償請求もいまだ係争中の公害病を扱うことは、大きな冒険だったと思います。水俣病を記録した映像作品や写真集が多数ある中、演劇という表現になにが出来るのかも試練だったでしょう。
会話劇の多くは、こうした重い題材を扱う場合、個人の営みを丁寧に拾い上げることで、その背後にあるものを浮かび上がらせていきます。そうやって観客に考える場を与えることが演劇に出来ることであり、あまり上段に振りかぶると、どうしても舞台での絵空事になってしまいます。風琴工房には死刑制度を扱った『ゼロの柩』がありますが、そこでも死刑囚とそれに関わる人々を交錯させながら、命とはなにかを問い掛けていました。
水俣病は、それよりさらに難題だったのかも知れません。風琴工房としてはめずらしい2部構成で、それぞれを一場で描きます。第1話「猫の庭」は、1959年のチッソ水俣工場(当時はまだ新日本窒素肥料ですが作品ではチッソに統一)の一室を舞台に、後年知られる「猫400号実験」の会議を描き、第2話「温もりの家」は、現在の胎児性水俣病患者が通う共同作業所(実在の施設「ほっとはうす」がモデル)を舞台に、詩森氏自身と思われる劇作家が取材に来る模様をリアルに再現しています。
第1話の議論だけでも充分惹き込まれるのですが、それだけでは絵空事になると思ったのでしょうか。第2話では禁じ手とも思えるメタ構造で、現実と創作の接点を描きます。これを支えているのが、第1話でチッソの隠蔽側にいる病院長と工場幹部が、第2話でリアルな胎児性水俣病患者を1時間演じ続ける劇構造です。同じ俳優が二役を演じることで、物語を超えた演劇ならではの表現に昇華されていると感じました。
メタ構造にしなければ成立しないほどこの問題は重く、それを敢えて実行した風琴工房の決意が伝わる濃密な時間でした。創作に際しては現地取材を重ね、出演者全員で「ほっとはうす」訪問も果たしています。客演陣も含む全員+スタッフ2名ですから15名になるわけで、これだけでも意気込みが伝わります。地元の協賛を始め、地元各紙が大きく取り上げたのもその表われでしょう。公演中盤には熊本日日新聞が朝刊「人」欄で詩森氏を紹介しています。これは異例の扱いではないでしょうか。
『hg』は風琴工房の動員記録1,200名を達成したそうです。トピックでご紹介したとおり、積極的な招待策の効果もあったのだと思いますが、もっと多くの観客が足を運ぶべき作品だと私は考えます。小劇場界では新しいスタイルの若手劇作家や演出家がもてはやされ、マスコミや観客もそちらにばかり目を向けがちですが、こうした愚直な作品があたりまえに3,000名、5,000名を集めてこそ、演劇は世の中に根付いていくのではないでしょうか。私はそう思います。
出演者についてひとこと。今回の客演陣は本当に観応えがありました。「豪華客演陣」という言葉自体が無意味に思えるほど、この作品にはかけがえのない存在になっていました。いつか熊本で上演するときも、ぜひ同じ顔ぶれでお願いしたいものです。
*
水俣病を題材にした作品は、今春もう1本ありました。熊本市の劇団0相が東京国際芸術祭2008「リージョナルシアター・シリーズ」でリーディング公演した『アクワリウム』です。地元のカンパニーが水俣病をモチーフに東京で上演するという、これも注目の作品でした。
リーディングですから本公演とは異なりますが、内容は架空の水族館の一日を描いた全編メタファーとも思える作品で、水俣病が身近にある地域ならではの表現とも言えなくはないですが、「右手肘から先がイカの足」という思い切った人物設定や、猫踊りの扱い方など、その必然性が試される物語でもありました。もちろん、表現に対する全責任を負う覚悟があればいいわけですが、ならばまず水俣で上演してから東京に持ってくるべきだと率直に思いました。
作品はその後、長崎、熊本、牛深(天草)をツアー中ですが、同じ県内ですから水俣公演は手打ちで出来るはずですし、やらなければいけないと思います。制作と俳優を兼ねる松岡優子さんは個人ブログで、「こわいですよ。それは。それは絶対。熊本でやる公演は特にこわい」と書かれていますが、だったらなおさら水俣でやるべきだし、もしそれが出来ないと思う内容なら、「リージョナルシアター・シリーズ」に参加したことに疑問を感じてしまいます。
誤解のないように書きますが、患者の病状をメタファーにするのが悪いと言っているわけではありません。そこに物語としての必然性があり、『アクワリウム』が「悪は利を生む」を描いているのなら、そうした表現もあっていいと思います。けれど、そのためには水俣で上演する覚悟が必要で、地元カンパニーならその必然性を水俣で問う必要があるんじゃないかと、私がプロデューサーなら強く感じます。
松岡さんは風琴工房を「すっごくまっすぐな芝居だったのだろうな」と書かれていますが、胎児性水俣病患者を1時間演じ続けると、どうしても物真似に見えてきてしまうとのレビューも東京ではありました。演じるということはそういうことであり、直球勝負ならではの障壁も多数あります。実際にご覧になれば、これが単なる直球勝負ではなく、9回裏一打サヨナラのシーンでの直球勝負だったことがわかったと思います。