この記事は2009年7月に掲載されたものです。
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なぜ、芸術文化環境の格差が生まれたのか。

カテゴリー: さくてき博多一本締め | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 高崎大志 です。

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fringeのドメインからやや脱線するようですが、簡単に私の考えを書いてみます。

私は専門の研究者ではないので、不正確な部分があると思いますし、すでに先人が明確にしていることと思いますが、主に直感を頼りに考えをまとめてみたいと思います。

たとえば江戸時代は基本的に地域主権の時代でした。首都であり人口の多い江戸に多くの文化芸術リソースが集中していたと思います。が、私の知る範囲ではこれは許容される範囲の格差だと考えています。

現在の格差はこれまで書いてきたように、許容出来ない格差です。
様々なリソースが集中する首都圏に突出した環境が生まれることは自然なことと言えますが、そういう市場原理を別にすると、明治時代にこの国に強力な中央集権の政府が出来たことが、もっとも大きな理由の一つだと考えています。

明治政府が成立した当初、各地で反政府の反乱がおこり、日本という国の中で、あたかも東京だけが浮いているような時期があったと言います。この状態で政権の安全を保証するものはまずは軍隊であり、それを安定継続化するものは文化芸術です。

政府が文化芸術を利用するというのは昔からおこなわれていることで、たとえば巨大建築であったり、儒教の導入であったりします。文化度を高めることで政権の権威づけを行い、間接的に反乱の発生率を下げて、政権の永続化をはかるということは当然におこなわれてきました。

西南戦争の前後から、東京の文化度を高める政策がおこなわれてきたであろうと推測しています(それは不平等条約解消を主目的にするものも含めて)。国立劇場の分布を見ても明白ですが、現在、国立の文化芸術施設の多くが東京に一極集中しているのは、その流れの延長線上にあると考えています。

結果として文化芸術のリソースが中央に一極集中し、地域はたいへん不利な環境におかれているという時代になってしまいました。現在でも、政府の文化政策は東京を中心につくられていると思えますし、さらにまずいと思えるのは、その自覚がないというところまで来ているように思える点です。

今の日本で、政府の権威付けのために文化芸術を用いる必要はないことは明らかです。
市場原理による一極集中に対しては、適切な再配分をおこなってこれを是正しなければなりません。また政府政策による一極集中に対しては、あらたな政府の政策によりこれを是正しなければなりません。