私に小劇場の楽しさを教えてくれたカンパニーを一つ選べと言われたら、迷うことなく劇団M.O.P.を挙げる。それは私が観客として小劇場にのめり込んでいた時期とカンパニーの成長期が重なり、奇跡のような瞬間にいくつも立ち会えたことが大きい。小劇場ファンなら誰でも、若いカンパニーが信じられない躍進を遂げていく姿を目の当たりにすることがあるはずだ。公演を一回でも観逃すと、次の公演で見違える舞台になっている。だから劇場通いがやめられなくなり、カンパニーの成長と自分自身の軌跡を重ね合わせていたりする。それが私にとってはM.O.P.だったということだ。
マキノノゾミ氏最初のオリジナル『HAPPY MAN』(1989年6月)の続編としてつくられた『HAPPY MAN2 上海大冒険』(90年4月)、『HAPPY MAN異聞~新幕末百景~』(90年9月)、『HAPPY MAN3 さよなら竜馬』(90年11月)の怒涛の3連続公演は、まさに神懸りに思えた。いまなら柿喰う客がもっと短いスパンで本公演をしているが、「本当に自信があるならこういうことをしてもいい」「それでも観客はついてくる」ということを体感させてくれた一年だった。正直、『異聞』のチラシを初めて見たとき、鳥肌が立ったものだ。
『HAPPY MAN』シリーズから観始めた私にとって、すでにM.O.P.は京都の若手カンパニーを超越した特別な存在だった。チラシのイラストをプロの漫画家(石渡治氏)が手掛けているかと思えば、伝説のプロデュース公演として語り継がれるペーパー・カンパニー『広島に原爆を落とす日』(89年12月、本多劇場)を構成・演出した「市堂起立」が実はマキノ氏であるとか、マキノ氏や同志社大学第三劇場の人脈を知らなかった私にとって、関西の枠を軽々と超えたものすごい存在に思えた。
90年当時、ダムタイプが京都のアートスペース無門館(現・アトリエ劇研)を本拠にワールドツアーを展開し、「京都から東京を飛び越えて世界進出」と注目されていたが、同じく無門館を本拠にするM.O.P.も、きっと演劇の歴史を変えていくだろうと思った。東京で関西小劇場界の評価が低かった当時、ダムタイプとM.O.P.が私たちにどれだけ勇気を与えてくれたことか。維新派が東京で認められるのは91年10月の汐留公演からで、東京で評価されていたのは劇団☆新感線ぐらいだった。
ペーパー・カンパニー『広島に原爆を落とす日』を紹介した『演劇ぶっく』24号(90年4月号)が手元にあるが、この扱いがすごい。当時はカラーページが少なく、カラー2ページが最大級の扱いだったところへ、この作品はカラー3ページ+モノクロ4ページを割いている。その後小劇場系で盛んになるプロデュース公演の原点とも言われており、演劇史上記録されるべきものだろう。まだ銀座セゾン劇場勤務だった岡村俊一氏が第三劇場の後輩であることも、この記事で初めて知った。このペーパー・カンパニーが、現在のアール・ユー・ピーにつながっているのである。
M.O.P.がまだ出身母体の第三劇場と関係が深く、現役の学生俳優たちとの交流が盛んだったのも、若い観客にはより身近な存在として映った。第三劇場の学生を起用するのだが、決して身内受けではなく、M.O.P.というプロフェッショナルな環境で鍛えられている感覚があり、若手の人材育成として理想形に映った。小市慢太郎氏のように、実力を認められて在学中からM.O.P.に正式入団した例もある。
91年2月の第三劇場卒業公演『ウルトラマン』は、小市氏を始めとするM.O.P.常連組が卒業とあって、学生劇団とは思えないクオリティとなった。学内公演なのにブロッコリ哲(現・穂積哲也)氏と三上一郎(現・三上市朗)氏が特別出演で花を添えた。これに対抗心を燃やしたのか、同じ2月の同志社大学演劇集団Qの卒業公演『島影、はるかに』も素晴らしい作品になった。こちらでは、京都学生演劇界のアイドルだった柊ありす氏が卒業した。この二つの卒業公演は、京都の学生演劇のポテンシャルを実感させ、いまでも私のオールタイムベストで上位にランクされている。
M.O.P.の最高傑作と言っていいのが、『ピスケン』だろう。91年9月の初演もよかったが、92年9月~12月の再演ツアーでは休んでいた小市氏が陸軍憲兵隊の甘粕大尉を演じ、まさに「この役のために生まれてきたのではないか」と思わせた。創設メンバーで看板男優だった清水秀一(元・ぬりかべハタ坊)氏と三上氏が世代交代した作品でもあり、なおさら感慨深い。学生劇団からスタートしたカンパニーが確実に階段を登り、芸術面で一つの頂点を極めた作品だった。同一場面で進行するグランドホテル方式に挑戦し、以後のマキノ作品に大きな影響を与えている。新劇系に提供する数々の名作もこの作品があったからこそ誕生したのだと思う。すべてが『ピスケン』から始まっており、ライブで出会えた私は幸せだった。
91年は3月に善人会議(現・扉座)と手を組んだ「芸術祭典・京」でのM.O.P.スペシャル『きらら浮世伝』、石渡氏による『Weekly漫画アクション』(双葉社)での『HAPPY MAN 爆裂怒濤の桂小五郎』連載も春から開始され、「M.O.P.イヤー」と呼んでもいい年だった。当時の私は観客から演劇制作を手伝う立場に変わろうとしていたが、このカンパニーなら協力してもいいと思えたのが、遊気舎とM.O.P.だった。
当時すでにM.O.P.は制作部が法人化され、小川友記子氏(現・イオン化粧品シアターBRAVA!プロデューサー)という有能な制作者がいた。叡電・元田中にあった劇団事務所で丸めたパンチカーペットを指差し、「徹夜で帰れなくなったら、この中で仮眠するんです」と言っていた小川氏にはかなわないと思った。それなら制作者がいない遊気舎のほうが役に立てるかと思い、91年4月から遊気舎に参画するようになったのである。『ピスケン』初演が91年9月だったので、順序が逆だったら『ピスケン』の魅力に決心が変わっていたかも知れない。
M.O.P.は拠点を東京に移してからも、稽古期間中は京都に戻るスタイルを2003年まで続けた。京都で学生時代を過ごした私にとって、気持ちはよくわかる。マスコミ関連の仕事が増え、拠点を東京に移さざるを得なくなっても、原点はやはり京都なのだ。独特の時間が流れる京都で創作活動に没頭したいのだろう。マキノ氏も「事情が許すなら、永久に京都で作り続けたい」(読売新聞大阪本社版7月15日付夕刊)と語っている。MONOやヨーロッパ企画はこの思いを受け継ぎ、京都を離れないでいてほしい。
解散を惜しむファンは少なくないようだが、今春のオンシアター自由劇場再結集による『上海バンスキング』を観たマキノ氏は、「同窓会みたいに楽しそうだった。僕らもいつか、あんな風に集まれたらいいな。悲壮感はない。やりたくなれば、いつでも集まればいいから」と語っている(同上)。M.O.P.にとって解散は終わりではなく、新たな始まりだろう。公演間隔が開いてしまっているカンパニーとして、私は勇気ある決断だったと高く評価したい。残り公演をカウントダウンしながら進んだこの2年間は、これまで以上に充実していたはずだ。元劇団員たちの今後の活躍を心から期待している。
川下大洋氏の個人ブログで、元気そうな清水秀一氏と穂積哲也氏の姿が確認出来たのもうれしい。川下氏は「劇団は解散してなんぼ」と書いているが、私も全く同感である。
――M.O.P.の皆さん、ありがとう。私もスプレンディッド・タイムをもらった一人です。