この記事は2016年2月に掲載されたものです。
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セゾン文化財団・片山正夫常務理事が『セゾン文化財団の挑戦――誕生から堤清二の死まで』上梓、既成概念を革新し続けた助成プログラムの舞台裏を語る。「助成は、問題解決を目的とするものではない。未来の価値を創造しているのである」

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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公益財団法人セゾン文化財団の片山正夫常務理事が、『セゾン文化財団の挑戦――誕生から堤清二の死まで』(書籍工房早山、2016年)を2月24日上梓した。

片山氏は1989年からセゾン文化財団の事務局長を務めているが、2003年に常務理事に就任した際、事務局長という肩書を廃している。そもそも、助成団体の執行部門を委員会の事務組織のような「事務局」という名称で呼ぶこと自体に違和感があり、執行部門の実質的責任者が理事を兼務するのは当然というのが、片山氏の意見だ。確かに企業で例えれば当たり前のことであり*1 、出向当初からこうした鋭い着眼点を持っていたことが、セゾン文化財団を進化させたのではないかと思う。

これまでセゾン文化財団は何度も助成プログラムを変更しているが、その経緯が舞台裏も含めて詳細に書かれており、過去の遷移を知る演劇関係者には納得のドキュメントだろう。過去を知らない読者にも、一民間助成団体に過ぎないセゾン文化財団が、日本の舞台芸術で特別な存在感を発揮し続けている理由が理解出来るだろう。非公募や財団自体が主催するプログラムが存在する理由も明確に語られており、好感が持てる。

本書は挑戦する勇気も改めて教えてくれる。旧公益法人を指導する主務官庁(文化庁)と折衝を重ねながら、プログラム・オフィサー制導入(88年)*2 、運営助成(団体助成)移行開始(91年)、森下スタジオ開館(94年)、サバティカル(休暇・充電)導入(05年)、セゾン・フェロー開始(08年)を実現していく過程は、まさに荒野に道を切り開くかのようだ。「例外のないルールはない」というが、それを具現化したのがセゾン文化財団だと思う。

信じられないことだが、プログラム・オフィサーを4名体制にした91年ごろから、文化庁は「助成金を出す仕事にどうしてこんなに人員が必要なのか」と何度も尋ねたという。助成団体が助成先の採択と評価に責任を持つという当然のことが、当時は異端視されていたのだ。

セゾン・フェローへの支払方法も私は本書で初めて知った。通常、助成金は申請者に全額振り込まれるものだが、セゾン・フェローはフェローからの指図書により、振込先を分割することが可能だという。団体ではなくアーティスト個人への助成となるため、本人、その主宰団体、別のユニットなど、様々な口座へ振込可能なのだ。助成自体の証跡が非常にわかりにくくなるが、これも文化庁に認めてもらって実現したという。

荒野はアーティスト自身も切り開かねばならない。本書でも紹介されている有名なエピソードだが、88年に最初の助成先に選ばれた青春五月党は、当時19歳だった主宰の柳美里氏が突然事務局を訪ねてきたことがきっかけだった。提出された申請書の活動趣旨には、「言葉による芝居の復権を目指して、あくまで言葉の力を追求しようとしています」とだけ書かれていたという。

94年に団体助成である「年間活動助成」に採択されたMODEは、活動を休止してしまう。本来なら助成金は返還すべきところだが、主宰の松本修氏はチェーホフの面影を追ったシベリア鉄道の旅に使いたいと申し出る。この出来事が05年のサバティカル導入に発展したわけで、アーティストの情熱が助成団体を動かしたものと言える。

私が特に感銘を受けたのは、02年に団体助成である「芸術創造」のうち、シニア部門「芸術創造活動II」の新規受付を中止したときの舞台裏だ。ジュニア部門「芸術創造活動I」の申請数が多くなりすぎたため、少しでも間口を広げるために「I」に一本化したのだ。このとき事務局では、もし「I」のスキームでは物足りないほどの才能が現われたときは、いつでも裏メニューとして「II」のような延長プログラムを提供しようと考えていたという。

こうした事務局の対応からわかるのは、本当にすごい才能が現われたなら、助成団体も既成のルールは無視し、その才能を支援するということだ。本当に上演すべき作品があったなら、助成団体自身が主催することだってある。本当に才能があるのなら、あきらめずに挑戦を続けてほしい。同じことはメディアにも言える。演劇欄のない雑誌でも、本当にすごい才能なら別枠で扱ってくれると思う。要は、どれだけ相手の心に響くかなのだ。

本書のサブタイトルには堤清二氏が登場するが、堤氏についての記述はそれほど多くない。理事長が実務にタッチすることは限られている。片山氏とも雑談がほとんどだったという。それでも、セゾン文化財団が堤氏の私財でつくられた財団だなと思うのは、早期に演劇分野、それも若手の小劇場系にシフトしていく過程である。社会への影響力を考えれば、いくらでも選択肢はあったのではないかと思う。それを拒否しなかった堤氏に、詩人・作家である辻井喬(堤氏のペンネーム)の視点を色濃く感じる。以前から堤氏は文化人に支援の手を差し伸べ、それは片山氏によると「『企業の文化戦略』の枠を逸脱しており、ほぼ純粋にパトロンとしての振る舞い」だったという。このパトロンがいたからこそ、セゾン文化財団が誕生したのだ。

セゾン文化財団は、日本で唯一無二の舞台芸術専門の民間助成団体である。その先進性、独自性は揺るぎないものがある。片山氏は、自身がボード委員を務めるアーツカウンシル東京で長期助成プログラムが開始され、複雑な心境を述べているが、セゾン文化財団が掲げる芸術助成財団のイメージを実践出来るところが、ほかにあるだろうか。片山氏はこうイメージする。

そもそも芸術家や芸術活動への助成は、問題解決を目的とするものではない。

(中略)

強いて言えば、未来の価値を創造している(あるいはそのお手伝いをしている)のである。

片山正夫著『セゾン文化財団の挑戦――誕生から堤清二の死まで』
(書籍工房早山、2016年)(p.288)
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  1. 企業に事業本部があり、その本部長を常務取締役が兼ねているようなものである。 []
  2. 本書に88年という記述はないが、「財団法人セゾン文化財団2006年度事業報告書」掲載の「セゾン文化財団年表1987-2006年」による。 []