9月に発行されたアトリエ劇研30周年記念誌『天に宝を積む』を読んだ。
京都・下鴨に開設されたアートスペース無門館~アトリエ劇研の歴史を語るとき、忘れてはならないのが無門館時代の故・
劇場として意思のある事業を継続するには、全体を通して見る人材が必要で、それが後年のディレクター(芸術監督)制度になったわけだが、劇研として再スタートした1996年から制度が確立する2008年までの「中興の祖」と言えるのは、やはり劇研スタッフルームだろう。館主の力があったとはいえ、稼働率の高い民間の拠点劇場が、このような自主運営で成長していったケースは全国的にもめずらしいと思う。公設や学内の劇場では事例があるが、民間劇場では類稀な存在ではないだろうか。若手芸術家に300万円が交付される京都市芸術文化特別奨励者に、初代スタッフルーム代表の吉本有輝子氏が選ばれたときは本当にうれしかった。
人と人とを結び付ける手腕、現在の用語で言うなら「マッチング」の天才が遠藤氏だった。結果を伴うその才覚は高く評価され、対象となった人々からは「恩人」と称される一方、制作者としては辛辣な言動も多く、京都の若手演劇人から疎まれたのも事実である。当時の関西小劇場界は演劇制作に関しては未熟で、実際に劇場経営を預かる遠藤氏から見れば赤子も同然で、そうした苛立ちが言動に表われたのかも知れない。結果的にこの対立が京都舞台芸術協会を設立させたわけで、当時者にとっては忘れ難い思い出だろう。記念誌に寄稿している対立した側の人々が、慎重に言葉を選んでいるのを読者は感じ取ってほしい。
それらを踏まえ、遠藤氏の功績を3点挙げるとすれば、次のようになると思う。
- ダムタイプをレジデンスアーティストにしたこと。
- マキノノゾミ氏と宮田慶子氏をマッチングさせたこと。
- 結果的に京都舞台芸術協会を設立させる動機となったこと。
特定のアーティストに劇場を長期占有させる発想自体がなかった当時、1は画期的なことだった。京都の若手登竜門になるだけでなく、東京での活躍の場を広げるという意味で、2でマキノ氏と青年座を結び付けたことも大きい。3は若手演劇人が一致するための〈仮想敵国〉として、ヒール役を務めてもらったのだと思う。
劇場と言えば、そこで上演される作品に注目が集まりがちだが、当然ながら劇場自体の運営にも様々なドラマがあり、人間模様がある、裏方中の裏方である劇場スタッフの事情など、通常は外部に出ないものだが、無門館~劇研の場合はその独特な経緯からそれが広まり、こうして記念誌の形で記録に残ることになった。いや、独特すぎるがゆえに、記録に残さないといけないと当事者が判断したのだろう。
劇研として再スタートした劇場に、やはり遠藤氏は未練があったことも本書の波多野氏インタビューで知った。だが、劇場を離れて『月の岬』や「芸術祭典・京」に専念して結果を残したことが、その後の評価につながったわけで、これは芸術的に見ても必要な決別だったのだろう。本書を読んで改めて感じるのは、遠藤氏という〈怪物〉のパワーと行動力が、現在の関西小劇場界にあるかということである。
残念ながら、劇研は2017年8月末の閉館が発表された。個人所有の劇場ならば、そういう区切りもあるだろう。劇研は単なる劇場ではなく、劇研という意思を持った存在として認知されていると私は思う。その意思を劇研を知る人々が継承し、新しい場で実らせてほしいと願う。とりわけ、上演団体に試演会の場を無償に近い形で提供するC.T.T.(Contemporary Theater Training)は存続させてほしい。