この記事は2015年11月に掲載されたものです。
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アトリエ劇研30周年記念誌『天に宝を積む』を読んで感じたこと――マッチングの天才・遠藤寿美子プロデューサー、そして劇研スタッフルームという「中興の祖」

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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9月に発行されたアトリエ劇研30周年記念誌『天に宝を積む』を読んだ。

京都・下鴨に開設されたアートスペース無門館~アトリエ劇研の歴史を語るとき、忘れてはならないのが無門館時代の故・遠藤寿美子えんどうすみこプロデューサー、そして劇研を支えたスタッフルームの存在である。波多野茂彌はたのしげや館主の個人宅を改築した小劇場というのもユニークだが、無門館を無門館たらしめたのが遠藤プロデューサーの強烈な個性であり、下鴨という動員に苦労するロケーションで劇研を支えたのは、スタッフルームという若手技術スタッフが結集した自主運営組織があったからだと感じる。

劇場として意思のある事業を継続するには、全体を通して見る人材が必要で、それが後年のディレクター(芸術監督)制度になったわけだが、劇研として再スタートした1996年から制度が確立する2008年までの「中興の祖」と言えるのは、やはり劇研スタッフルームだろう。館主の力があったとはいえ、稼働率の高い民間の拠点劇場が、このような自主運営で成長していったケースは全国的にもめずらしいと思う。公設や学内の劇場では事例があるが、民間劇場では類稀な存在ではないだろうか。若手芸術家に300万円が交付される京都市芸術文化特別奨励者に、初代スタッフルーム代表の吉本有輝子氏が選ばれたときは本当にうれしかった。

人と人とを結び付ける手腕、現在の用語で言うなら「マッチング」の天才が遠藤氏だった。結果を伴うその才覚は高く評価され、対象となった人々からは「恩人」と称される一方、制作者としては辛辣な言動も多く、京都の若手演劇人から疎まれたのも事実である。当時の関西小劇場界は演劇制作に関しては未熟で、実際に劇場経営を預かる遠藤氏から見れば赤子も同然で、そうした苛立ちが言動に表われたのかも知れない。結果的にこの対立が京都舞台芸術協会を設立させたわけで、当時者にとっては忘れ難い思い出だろう。記念誌に寄稿している対立した側の人々が、慎重に言葉を選んでいるのを読者は感じ取ってほしい。

それらを踏まえ、遠藤氏の功績を3点挙げるとすれば、次のようになると思う。

  1. ダムタイプをレジデンスアーティストにしたこと。
  2. マキノノゾミ氏と宮田慶子氏をマッチングさせたこと。
  3. 結果的に京都舞台芸術協会を設立させる動機となったこと。

特定のアーティストに劇場を長期占有させる発想自体がなかった当時、1は画期的なことだった。京都の若手登竜門になるだけでなく、東京での活躍の場を広げるという意味で、2でマキノ氏と青年座を結び付けたことも大きい。3は若手演劇人が一致するための〈仮想敵国〉として、ヒール役を務めてもらったのだと思う。

劇場と言えば、そこで上演される作品に注目が集まりがちだが、当然ながら劇場自体の運営にも様々なドラマがあり、人間模様がある、裏方中の裏方である劇場スタッフの事情など、通常は外部に出ないものだが、無門館~劇研の場合はその独特な経緯からそれが広まり、こうして記念誌の形で記録に残ることになった。いや、独特すぎるがゆえに、記録に残さないといけないと当事者が判断したのだろう。

劇研として再スタートした劇場に、やはり遠藤氏は未練があったことも本書の波多野氏インタビューで知った。だが、劇場を離れて『月の岬』や「芸術祭典・京」に専念して結果を残したことが、その後の評価につながったわけで、これは芸術的に見ても必要な決別だったのだろう。本書を読んで改めて感じるのは、遠藤氏という〈怪物〉のパワーと行動力が、現在の関西小劇場界にあるかということである。

残念ながら、劇研は2017年8月末の閉館が発表された。個人所有の劇場ならば、そういう区切りもあるだろう。劇研は単なる劇場ではなく、劇研という意思を持った存在として認知されていると私は思う。その意思を劇研を知る人々が継承し、新しい場で実らせてほしいと願う。とりわけ、上演団体に試演会の場を無償に近い形で提供するC.T.T.(Contemporary Theater Training)は存続させてほしい。

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