この記事は2013年11月に掲載されたものです。
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あいちトリエンナーレ|中日新聞の座談会を高く評価するとともに、同新聞に反論も同等レベルの扱いで載せるべき

カテゴリー: さくてき博多一本締め | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 高崎大志 です。

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 愛知県で行われた総合芸術祭「あいちトリエンナーレ2013」。中日新聞による記者座談会と銘打たれた記事がネット上で波紋を広げています。

 芸術祭や演劇祭を紹介するような新聞記事はよく見ます。
 ひとつの公演や催事という「木(作品)」への批評・感想というものもよくありますが、それと同じように総合芸術祭という「森(企画)」を捉えての批評・感想も重要だと思います。けれども、これまでの地域の批評シーンでは、そういった総合芸術祭企画という「森(企画)」への批評は殆ど行われてなかったのではないでしょうか。

 それはひとえに、それだけの高度な視点を有する人材を持てるだけの人口が地域にないからだと思っています。
 それだけに、中日新聞が総合芸術祭への企画批評に取り組んだことは、意欲的な姿勢でもあり、地域の新聞では珍しいことでしょう(国内でも珍しいことかもしれません)高く評価されるべきだと思います。また、複数の記者による「座談」という形で総括を試みたのは、一人で木々からなる森を俯瞰し論評できる人材が地域に見当たらないという実情があるとすれば、妥当な判断だと思います。

 国内には、いろんな芸術祭や演劇祭があります。仲間内で盛り上がりその勢いを大切にしたようなものもあれば、理念なき寄せ集めに終わっているものも、多額の予算を投入し明確な理念のもとに考えぬかれたものもあります。
 こういった総合企画に対して客観的な批評があることは、総合企画のクオリティの向上につながります。また芸術祭に訪れた観客に、より深い理解や解釈を伝えることも出来ます。芸術祭にこなかった市民にも企画の意義を届けることになります。それは市民・県民の利益に直結し、新聞が担う社会的な役割の一端を果たしたといえでしょう。

 一方、その中日新聞の記事に多くの批判が寄せられていることは無視できません。中日新聞の記事が、責任ある批評としての納得性が不十分なものであったと、謙虚に受け止めるべきでしょう。

 また、批判の殆どはネット上で行われているという点にも留意が必要です。
 新聞記事はプッシュ型で新聞購読者の目に広く触れるものですが、プル型であるネット上での批判を見るのは基本的に芸術関係者がほとんどでしょう。多くの県民には一方的な情報が届いただけということになります。
 この非対称は解決されなければなりません。

 そのためには、中日新聞の誌上に総括記事と同等、少なくとも半分程度の扱いで反論が掲載されるべきでしょう。新聞での批評は、一個人が独断と偏見で書くことが許されるブログ等の感想とは異なり、公益性を指向していることは前提として考えられます。
 一般市民に情報を届けるツールとして、新聞はまだその重要性を保っています。正確な情報・客観的な論評を市民に届ける使命が新聞にあるとするならば、中日新聞は第二の英断を行うべきです。

 批判の中には細を穿ち過ぎているものもあるように思います。批判の主張にも優先順位を定め、一般市民の視点ということを念頭に、小異を捨てて大同につく形での批判が行われることが公益に叶うでしょう。そしてそれは、紙面の多くを割いた中日新聞への謝意を伴ったものであることが望ましいと思います。

 最後になりますが、この投稿は、新聞でのトータルの批評が適切なものであったか、それに対する批判が妥当なものかについて判断をするものではありません。中日新聞の意欲的な記事を評価するとともに、ネット上での反論を見るにそれが社会的客観性を備えていないという印象を持つのに十分であり、であるならば反論記事にも同等レベルの扱いで載せるべきと主張するものです。

Realtokyo「中日新聞5記者への公開質問状」(記事あり)
http://goo.gl/Qha4JW

twitterまとめ「中日新聞「あいちトリエンナーレ2013」記者座談会に対する芸術監督五十嵐太郎氏の連投」
http://togetter.com/li/583137