この記事は2010年3月に掲載されたものです。
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制作者がドラマトゥルクを名乗る必要があるのか

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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小劇場界でもドラマトゥルクというクレジットを散見するようになった。

ドラマトゥルクという職能は重要だと思うし、余裕があるならそうした専門スタッフを置くことは意義があるだろう。ただし私が疑問に思うのは、ドラマトゥルクという概念が一人歩きしてしまい、制作者とは全く別にドラマトゥルクという職能が存在するかのような風潮にあることだ。

クレジットを見ていても、専任でドラマトゥルクと書いている場合はわかる。けれど、プロデューサーや制作と兼ねる形でドラマトゥルクと書かれると、「それっていったいなんなの?」と言いたくなる。プロデューサーや制作者は、元々ドラマトゥルクの要素を含んでいるはずではないのか。

創作過程で劇作家・演出家をサポートし、参考資料を集め、助言を行なう制作者は大勢いる。公演企画書や助成金申請書を作成する場合も、まだ構想中の劇作家・演出家と対話してキーワードを引き出し、制作者が作品コンセプトそのものを執筆することも少なくないだろう。やっていることは、まさにドラマトゥルクと同じである。

こうした職能がドラマトゥルクの専売特許ということになると、制作者に求められる職能が矮小化されてしまう。制作者は芸術面に関わらない実務屋に見られ、制作者という職能の可能性が広がらない。大きな組織になると、もちろん予算管理や票券管理専門の担当者もいるだろうが、制作者になりたいという人は本来芸術面に関わりたいと思っているはずだ。演劇界では昔から制作者の地位が低いが、わざわざドラマトゥルクを別にクレジットすることは、それを肯定することにつながらないか。

コミックスの分野では、漫画家と担当編集者が一心同体で作品づくりを行なうケースがめずらしくないと聞くが、編集者はあくまで編集者であって、わざわざ「原作協力」なんてクレジットはしない(フリー編集者の長崎尚志氏のような場合は別にして)。それは編集者の当然の職能として含まれているからだ。同じように、制作者にもドラマトゥルクという職能は含まれており、それをわざわざ別にクレジットする必要があるのだろうか。

名称はどうあれ、学芸専任スタッフを置いて芸術面を充実させること自体はよいことだろう。けれど、初めから学芸領域が手つかずで存在していたわけではなく、それは制作者の学芸領域を独立させたものだと私は思う。そして本当に大切なことは、名称よりも制作者が仕事の幅を広げ、演劇の現場にその重要性を認知させることではないだろうか。