この記事は2005年12月に掲載されたものです。
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京都新聞の記事が指摘したこと

カテゴリー: 京都下鴨通信 | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 杉山準 です。

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 11月24日京都新聞夕刊の一面に「古都カオス 支援に甘え、薄れる気概」という記事が発表され、関係する演劇人の間に衝撃が走った。インタビューで語った事実がわい曲された記事に関係者が一様に抗議し、新聞社に対処を求めるちょっとした騒ぎになった。私も京都舞台芸術協会理事の一員としてその記事に対して抗議の意を表明した。この記事を読んだ市民が演劇に公的支援は必要無いと思ってしまわないような対処を新聞社には強く求めたい。
 残念なことにこの記事は「演劇が公的助成金(税金)で支援される必要があるんだろうか?」という市民の素朴な疑問に対して、支持を得られやすいこたえを提示してしまっている。それは舞台芸術にたずさわり、助成金の恩恵を受けているものとしてはやっかいなことである。

 この記事を書いた記者は「一部の観客のみが楽しめるような作品に、助成金が使われるというのはいかがなものか」と思ったふしがあり、それはとりたてて舞台芸術ファンでもない多くの一般市民(納税者)の感情にもあてはまると想像できる。この記事はいろいろ問題があるにせよ、芸術に対する公的支援のありかた、そしてどのような公演(作品、団体)に公的支援がなされるべきか、またひいてはその決定プロセスのわかりづらさということについて、税金を使う事業である以上、観客のみならず、市民(納税者)にそれを納得してもらうようなことをしないとまずいのではないか、という危機感を関係者に与えたことは間違い無い。
 この記事では「公的支援は芸術家を甘えさせ、気概をうしなわせているのではないか」と指摘した。そこでは京都芸術センター主催事業である演劇計画2005での公演が槍玉にあげられていたが、そもそも、どこかを重点的に支援すれば支援されなかった多くの人から不満の声が上がるのはもっともなことであり、もともと京都芸術センターは公共施設にありがちな平等主義を廃し、専門家による審査によって優遇度に差を設け、いわば「不平等に」支援を行うことをよしとする場所で、そうした理念には私が知る限り京都の演劇人の多くは積極的に賛成したものである。芸術監督制度とまではゆかないまでも、運営委員会などで企画や事業が審査され、「ある傾向」が打ち出されていることは画期的なことであり、自分がその恩恵をうける受けないに関わらず、私はそうしたありかたには大いに賛成である。それはさておき、当該記事を書いた記者は京都芸術センターで行われた公演を見て「納得のいかなさ」を感じた可能性があり、その実感は同様にその作品を見た人にも共感を得られるものと判断した可能性がある。事実演劇関係者の間にもその作品や傾向に対して異議を唱える声も耳にする。芸術家が自分の芸術的感性や個性を強く打ち出していたり、新たな表現を模索しようという作品は難解なことも多いので、そんな作品では観客が戸惑うのも当たり前で、欧米でも話題作が賛否両論まっぷたつだ、などということは耳にする。わたしも海外の有名な公立劇場でブーイングとスタンディングオベ-ションが入り交じった公演を見たことがある。「納得のいかない」観客はおそらく全ての公演に存在するものであり、その逆もまたしかりである。「納得のいかない」観客をできるだけ減らし、なるべく多くの観客が納得することを目指すのがいいのか、納得しない観客が多くなる危険をおかしてでもある芸術性へのこだわりを優先するのか、それは実に難しい問題である。多くの作り手はもちろんできればその両方を満たしたいと思っているだろうが、客観的には「ある傾向」は存在している。そして、公費を使う以上はその「傾向の決定」における責任は当然問われていいものだと思っている。ただしそれは、そうした企画を採用したり承認した責任者の問題であり、作品やそれを創作した人のみにその責任がゆくのはおかしなことだと思う。今回の場合は、芸術センターにおけるプログラム決定の委員会にその責任があると思う。芸術監督制度はそうした責任の点ではわかりやすいが、委員会というのはいまひとつそのところが曖昧である。ちなみに京都芸術センターを作る際にも芸術監督制度は提案されたと思うが、最終的には委員会がそれに代わる仕組みになり、事実上誰に不満の声が届けばいいのか、そうした責任の所在はわかりずらくなってしまった。

 いうまでも無いが舞台芸術に対する公的支援は必要である。
 商品として売れる、採算がとれる作品はもちろん公的支援など必要無く、そうした作品は大規模な民間劇場、もしくは利益を目的とする株式会社、有限会社といった組織が製作する。一方で、芸術性が高かったり、社会に対して批評や批判性が強い作品など、社会的に存在意義が高いが気楽に楽しむとはいかない作品、先鋭的な表現や新たな芸術の境地を開拓するような表現、またはまだ評価が定まらない若手の公演などは不採算な可能性が高いために支援を必要とし、主に公立の施設、もしくは非営利団体が主催もしくはそれを支援するというのは自然の流れだと思う。簡単にいえば後者は観客すなわち入場料収入が限られるからである。不採算のものが切り捨てられることは、新人育成の面からいっても、芸術の可能性や豊かさを広げることや社会に対する批評効果といった面から言っても大いにマイナスである。文化財を保護したり、不採算だが有益な書籍を守るのと同様に、社会がそれを維持する仕組みが必要なのである。
公的支援が必要かどうかは、同時に「どのような作品なら支援する価値があるのか」を決めてゆくことだと思う。そして、その判断に対してそれが良かったのか悪かったのかを評価し、市民に説明する仕組みも求められて当然のことだと思う。
 京都芸術センターができる時にどのような施設が私達が求めるものなのか話し合ったことがある。その中で、「芸術監督制にし、同時に監督に任期を設けある一定年数で必ず退く」という案が上がった。つまり、芸術性の判断には監督の主観が大きく関わるので、それをかえろといっても無理。また、それを評価するというのもなかなか難しい。ならば、一定年数で違う主観をもった監督が就任し、そのつど方針が代わるというのはどうかというものである。つまり、否応なく変化する仕組みを作ることで、「ある傾向」の固定化を防ごうと思ったのである。
 ただし、この頃はいろんな状況を鑑みてシステムも臨機応変にするのがいいのではないかと思っている。文化先進国フランスでは芸術監督は当たり前らしいが、この頃は必ずしも芸術家が監督というわけではないらしい。芸術に明るく経営的な才覚がある人をディレクターにする傾向があると聞いたことがある。主な理由は財政的なことらしい。つまり赤字が増えるからということなのだ。予算も人事も握っているまさに大統領のような芸術監督が理想の芸術監督だと、創作者の多くは思うに違いないが、先述のように芸術性優先で不採算作品を連発すると財政的に問題を抱えてしまう。また、そうした作品が一部の愛好家の趣味を満足するためだけに実施されている、という見方もされかねない。施設が税金で維持されているということを考えると、作品のみならず財政面も含めて、総合的に施設の性格や特性を活かし、市民感情も考慮した上での運営が求められるのであろう。
 私は芸術監督制がいいか委員会制がいいかという「方針を決定するしくみ」と同様に、「施設や補助金の使われ方が社会にどの程度貢献したかを検証し市民に説明する仕組み」が大切になってきているのではと感じている。市民からも芸術家からも信頼される客観評価がない現状が続くとすれば、政府も自治体も財政難の御時世に公的支援不要論が噴出してもおかしくないのではないだろうか。(もうそうなっているかもしれないが・・・。)つまり観客動員数だけを判断材料にした費用対効果は文化的価値に対する評価が不十分であるし、作り手側の主観的評価、企画の関係者が書いた劇評、または一部の観客によるアンケート等からの意見によって評価されていては、客観性を欠いていると思われてもおかしくないと思うのである。

 作品は水物である。ことに新作ではいい作品もあれば、そうでないこともありうる。つまり例えば芸術センターなどの評価は一つ一つの公演というよりは、長期的ビジョンに基づき、どうであったかを検証される必要があると考えている。育成を目的にした公演もあれば、芸術の可能性のを切り開くことを目的とした公演もある。そんなことはやはり一般の人にはわからないことなのだ。一くくりに劇の公演なのである。ことに芸術的成果はわかりづらく、どうしても財政的評価もしくは観客動員力による評価、観客一人当りにかかったコストパフォーマンスによる評価という数字にあらわれる評価に偏りがちである。
 おそらく審査の公平性を守るためだろうが、助成金の審査や公的施設の運営そのものに研究者や評論家が加担する傾向があるが、むしろ芸術家やプロデューサーがそうしたことにもっと加担してもいいのではないだろうか。そして、批評や研究者はニュートラルな市民の立場から、例えば都市における文化芸術のありかたや行政の文化政策のご意見番として、そうした施設の運営や企画における意志決定の善し悪しを専門的に客観評価するための指針づくりや、そうした評価そのものに加担するのがわかりやすいのではないかと考えている。京都では人材が不足しているために、そうしたことができないのかもしれないが、近い将来はそれも改善されると予想している。
 もしかすると、東京ではとっくの昔にそうしたことは行われているかもしれないが・・・。