ネット上で観客の方も指摘していますが、開催中のBeSeTo演劇祭の宣伝は遅すぎます。どんなに魅力的な企画であっても、直前に告知されたのでは予定の立てようがありません。実行委員会の皆さんは大きな勘違いをされているのではないでしょうか。よい企画なら、直前の告知でも観客が集まるというわけではありません。よい企画だからこそ、早めの告知で周知徹底することが重要なのです。
どのような経緯でこれほど宣伝が後手後手になったのか、部外者としては知る由もありませんが、7月の段階で11月に東京開催があるのは私も知っていました。けれど、規模や日程の全容は最近まで不明でした。これほどの規模の演劇祭で、観客を早稲田界隈に通わせようと意図するなら、3か月前の8月中旬に仮チラシで概要程度は出回っていないと、おかしいのではないかと思います。
多数の団体が関わる演劇祭ですから、詳細が決定するのに時間が必要なことは理解します。けれど今回の宣伝計画を見ていると、全容が決まってからの情報解禁にこだわりすぎた印象を受けます。統一チラシや公式サイトがギリギリになったのも、そのためではないかと想像します。決まったことからどんどんリリースし、詳細未定でも「公演数がピークを迎える11月19日~23日は予定を空けておいてください」という予告広告を出すなど、宣伝のテクニックはいくらでもあったはずです。
私も時間があればハシゴをしたいと思いますが、桃唄309ワークショップの準備と本番がありますし、それ以外の予定も入れてしまったあとでBeSeTo演劇祭の詳細を知りました。秋の紅葉シーズンですし、旅行の予定を入れていた方も多いのではないでしょうか。「なぜもっと早く宣伝しないのか」と悔しがっている観客は少なくないと思います。それとも、時間の融通が利く学生だけを対象にした演劇祭なのでしょうか。
前々から感じていることを書きますが、こうした演劇祭ではカンパニーの主宰者が実行委員を務めるケースが多いと思います。主宰者の多くは演出家ですが、そもそも演出家と制作者では、時間に対する観念が異なっているのではないでしょうか。舞台が作品である演出家は、本番の開演ギリギリまで仕事の時間があり、初日が開けても手直しを重ねて作品を変えていくことがめずらしくありません。演出家にとって締切とは開演時間であり、千秋楽でもあるのです。
これはナマの舞台を手掛ける演出家として当然のことですが、逆に制作者はすべての締切が事前に決まっています。準備を遅らせると、それが結果に跳ね返ってきます。宣伝はもちろん後者ですから、そうした制作者としての時間感覚、センスを身に着けた人が責任もって担当すべき領域です。演出家や役者が宣伝を担当するとダメな理由に、この時間感覚の問題があるのではないでしょうか。
演劇制作の流れの中で、制作者(及び専任の劇作家)だけが作業のピークが異なる時間軸を歩んでいます。これは制作者の宿命であると同時に、集団の中でそうした孤高の存在を保てるという才能でもあるのです。主宰者はこのことを肝に銘じ、宣伝面は制作者に出来るだけ権限委譲すべきだと思います。今回の宣伝に、制作者はどれだけ関与していたのでしょうか。
トラックバックをありがとうございます。
私も予定を入れてしまってから情報を知った一人です。超豪華ラインナップなのにもともと知っていたOrt-d.d以外に全然行けません。
また、荻野さんがご指摘のように「学生だけを対象にした演劇祭」というイメージを強く受けました。ラインナップから考えると決してそういうものではないので、非常に残念です。
また、既にfringe blog「学習院女子大学への道」でも言及されていますが、地図が不親切なのは早稲田系の劇団のチラシでは非常によくあることで、この演劇祭のチラシでもそう感じました。それも「学生向け」イメージを強くした原因の一つです。
・・・・それにしても悔しい!!!
3週間前or3ヶ月前
お陰様でいろいろなところから公演のご案内やご招待などいただきます。本当にありがたいことなんですが、そのDMがだいたい、公演初日の3週間から、時には1週間前に送られてきます。そうなると予定、もう入っていますってことばかり。 私自身は公演のご案内や告知は数ヶ…
ご指摘はごもっともであります。
参加カンパニーの一つとして、宣伝面の遅れは残念でした。
ただ、今回の広報面の遅れと、フェスティバル・ディレクターを演出家が務めること自体の是非は別に考えるべきかと思います。
例えば、シアター・オリンピックスのフェスティバル・ディレクターをつとめるのはシアター・オリンピックス国際委員である各国の演出家であります。アヴィニョンやエディンバラのプログラム・ディレクターも演出家ですね。ヨーロッパで制作者がフェスティバル・ディレクターをつとめる演劇祭というものを私は知りません。あるんでしょうか?
むしろ、池袋演劇祭や下北沢演劇祭のように、誰がフェスティバル・ディレクターなのかわからない状態のほうが憂慮すべき異常事態であると思います。
また、いろいろ残念な面もありましたが、この短期間にわずか500m四方の中、32演目がひしめいたということ自体が歴史的な快挙だと思います。普段劇場でない場所も劇場になり、観客が追いつけないほどのタイムテーブルになりました。今回の企画で東京初公演を成し遂げたカンパニーも多くありました。準備期間の短さを考えると驚異的というほかはありません。
アヴィニョンの50箇所以上、400余演目には遠く及びませんが、海外で一般的にいわれるような、祝祭性のある演劇祭が東京で始めて成立したのではないでしょうか。
そういったプラス面も、積極的に評価されるべきかと思います。
フェスティバルディレクターは演劇祭のラインナップに責任を持つ芸術監督ですから、当然演出家が務めるべき役割だろうと私も思います。私が指摘しているのは、実行委員会の受け持つ役割の中で宣伝面については、演出家ではなく制作者が担当すべきだろうということです。
BeSeTo演劇祭のラインナップ、コンセプトはもちろん高く評価しています。会場のシェアリングなどは画期的ですね。けれど、演劇における最終的な評価は、当事者の思惑を離れて観客がするものだと私は思います。関係者の自負とは別に、観客の客観的な評価をいかに獲得するかが重要だと思います。そのためにも宣伝の責任は重いのです。
評論家が担うべき責任もまた重いと思うのです。
一般の観客ならば文句だけいっていいですけれども。
なぜ、この規模の演劇祭が成立したのか、どのような意味を持っていくのかを論じるクリティークが出てくるかどうか、注意深く観察していたいと思います。
私も参加カンパニーとして、発言します。
今回の宣伝面の遅れは大変残念です。
実行委員の方々のがんばりは認めますが、結果的には宣伝面では不備が多すぎたと思います。
もちろん、夏井さんが言うように大変画期的なイベントだった事も認めますし、今後もこういうフェスが日本にも定着すればいいなぁと思います。
500m四方の中で32公演がひしめいたのはすごい事ですが、その中で生活している一般早稲田大学生がその祭りを知らなかったのも事実です。
(高田馬場でたまたま話しかけられた街頭アンケートをしている学生さんと雑談をしたのですが、そんなフェスをしてることすら知りませんでした)
そういう意味で相変わらず日本の演劇祭は閉ざされた環境だなと実感しました。
エジンバラなどは街の人がその祭りに誇りを持っています。
そこらへんが意識の違いであり、そういう点の改善を重視していない現段階での実行委員の方々の意識は問題だと思います。
今回、BeSeTo演劇祭が行われ、あのラインナップを実現したことはすばらしいと思います。
それはフェスティバルディレクターの力でしょう。
参加して良かったと思うし、今後もがんばってほしいです。
実行委員の方々を非難する気もまったくないです。
ただ、次へのステップとして、宣伝面の強化、宣伝面へは専任制作者を数名おくことなどを考えて欲しいと思いました。
たぶん、制作者も置いていたのだと思いますが、人数が少なかったのだと感じました。
(普段劇場でないとこを使っているため、劇場の諸問題が多々あり、そこをフォローするだけで他に時間をかけれなかったのでは?と思いました)
危惧するのは、次が3年後という事です。
過去の思い出は悪いことは思い出しません。
今のまま終われば、3年後また同じ問題が出ると思います。
このようなフェスがもっとたくさんできるためにも、現時点で実行委員の中で議論してもらい、今後の発展につなげてほしいです。
何回も言いますが、今回のフェスに実行委員の方々は100%やりきったのだと思います。
本当にお疲れ様でした。
ただ、不備もしっかり議論して、次につなげてほしいと心底思います。
長々と失礼しました。