京都。東京でもなく大阪でもない、メインストリートの傍らにあるような街。けれども、どこにも行かずこの街で創り続けることの意味を考えています。その第二回目です。
定期的に「役者で食べたいんですけど」と聞かれます。そういうときには即座に「東京に行くのがいいと思うよ」と答えます。もちろん東京に行けばなんとかなるということではないのですが、少なくとも京都にいては無理です。だいたいこういう場合の「役者で食べる」は映像に出たいということで、突き詰めて聞いてみると演劇は足がかりということであって、だから例えば日本全国を旅して回って巡業するような「純粋な」演劇生活を望んでいるのではないんです。決して映像に出るのが悪いというのではありません。しかしそれならそれで、東京で一生懸命やっててもそんなチャンスがあるのかないのか見当もつかないのに、京都市左京区に(例えば)住んでて誰があなたを発見するというのか。そのようにもうちょっと優しく自分の意見を言いますと、相手は「そうですか、なるほど」としきりにうなづいて帰っていきます。しかし、必ずと言っていいほど京都を出る気配はありません。というより、ちょくちょく稽古場のある施設なんかで見かけたりします。そもそも、本気でそう考えているのであれば聞くより前になにかしら行動しているはずなんですね。メジャーになりたいと淡い期待を持ちながら、けれども京都を出ることはなく(勉強するというのも含めて、観劇でさえも!)、知り合った仲間とお芝居を時々やってみる。ああ、ぬるい。そう、ぬるぬるなんです。温度が中途半端なだけかと思ったら、なんだかねばりけもあるみたいな感じです。けれども絶対にみんなが言います。
「がんばって、舞台、やりますから」
この「がんばって」ほど恐ろしいことばはありません。さすがに「一生懸命」とは言いませんが(そこまでではないだろうという自覚はあるみたいで)、けれどもがんばるって言うんだったら別役実の名前くらいは知っておこうよと僕は心のなかで叫びます。
その「がんばる」がどういったものなのかを見極めるのに、僕はいつも苦労します。というか、たいてい失敗しています。それで結局「がんばる」と言ってしまう人は信じないことにしています。
それでは京都で演劇をするということ、「生き残る」ということ、あえて言えば京都で「がんばる」とはどういったやり方が考えられるのか。その意味とは。いい加減に本題へ入ろうと思います。
[つづく]
読書のすすめ
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