この記事は2004年3月に掲載されたものです。
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ぬるい街・京都3

カテゴリー: 京都下鴨通信 | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 田辺剛 です。

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京都。東京でもなく大阪でもない、メインストリートの傍らにあるような街。けれども、どこにも行かずこの街で創り続けることの意味を考えています。その第三回目です。

 京都で演劇を創っている人のほとんどは京都の出身ではありません。例えば良く知られている劇作家でも、鈴江俊郎氏は大阪、松田正隆氏は長崎、土田英生氏は愛知の出身です。そしてこの三人に並べるのは恐縮ですが、わたし自身も福岡の出身です。わたしを含めてここに挙げた人は大学進学と同時に京都へやってきて、そのまま現在に至っています(土田さんは一度東京に移られたことがあるらしいのですが)。京都にいる理由はそれぞれにあるのでしょうが、最近わたしが思うのは次のようなことです。

 一番は「京都芸術センター」の存在でしょう。2000年4月にこの施設がオープンする前、演劇の稽古と言えば京都市内にいくつかある若者向けの公民館に近いような施設や、京大の構内(かつては誰でも自由に入れて勝手に教室や廊下で稽古することが可能でした)でするのが一般的でした。しかし前者は利用が夜9:00までなのと、ある程度の広さがあるところになるとその獲得競争が激しくなるのでした。また京大は今ではかつてのように立ち入ることができなくなっています。京都芸術センターは審査制ですが、その利用は最長3ヶ月で利用は夜の10:00まで。そしてある程度の広さの部屋が無料であることが最大の特徴でしょう(先に挙げた施設も利用料は無料ですが)。この環境の向上は創作者をその作業に集中することを可能にし、制作者を稽古場探しに奔走することから解放してくれます(ただし完全に希望どおりに稽古場が確保できないときは従来の施設などを使います)。
 劇場についても同じことが言えると思いますが、なによりも大切なのはその場所に「人が集まるかどうか」ということだと思います。それは必ずしも目的を持って集まらなくてもいい。むしろ何の用もないけれども通りがかったり、立ち寄ったりするような場所であるかどうか。京都芸術センターには稽古場だけではなく、ギャラリーや情報スペース、図書室、そして喫茶店があることで、さまざまな人が集まる可能性を持っています。
 夜になれば稽古場の光がつきはじめ(全部で12の部屋があります)、あちらこちらで稽古やタタキをしているのがわかります。隣の部屋がやけに騒がしいかと思えばあの劇団か、というような具合に、また数少ない喫煙所へ行けば、演劇を今まさに「創っている」人が近くにいることを感じます。これはいろんな劇場で公演が行われている事実を知ったときの、演劇を「している」人がそんなにいるのかという感覚とは違うものです。

 京都で演劇をしている人間はたとえば「演劇ぶっく」を見てもほとんど意味が分かりません。また大阪の情報も、たとえば大阪の劇団が京都の公演にチラシを折り込みに来るのは(最近は少しずつ増えてきましたが)ほとんどないので、大阪ではなにが流行っているのかもあまり知ることがありません。そういうなかで「俺たちは俺たちでやるしかない」という風にならざるをえません。しかしそのようにして情報の洪水から離れることが、自分たち自身の表現についてこだわりを深めるには有効なのだと思います。じっくりと自分の表現について考えられる静けさ。そしてそのように試行錯誤を繰り返している人が京都芸術センターのようなところ、つまり比較的近いところにいること。多少の排他性があるのも事実ですが(たとえば東京や大阪の劇団が京都で公演をしてもなかなか観客を動員できないこと)、このようなこぢんまりとして奥行きのあるコミュニティは貴重なものだと思っています。そしてこういう環境が他の都市にもあるという話をわたしは聞いたことがあまりなく(仙台や北九州はそういう感じでしょうか)、それならば京都にいようと考えます。

つづく