ギンギラ太陽’s2回目の東京公演が盛況のうちに終了しました。今回はメディアへの露出も目立ち、日テレ系「NEWS ZERO」特集やCX系「めざましテレビ」でも取り上げられました。作品は2005年のパルコ劇場公演と同じ『翼をくださいっ!さらばYS-11』で、前回観逃した方にもその存在感を示したものと思います。
ギンギラ太陽’sについては私も充分に評価していますが、その上で今回は一つ問題提起をしたいと思います。伏線は、昨年の日本経済新聞西部支社版6月14日付朝刊に福岡の演劇評論家・東義人氏が寄稿した、大ギンギラ博覧会2007『流通戦争スペシャル』への批判です。「『おバカ路線』地元矮小化?」と題した辛辣な内容で、福岡のメディアと言えばパルコ劇場公演以降は絶賛の記事しか目にしたことがなかったので、記憶に残りました。単なる地元ネタの羅列に過ぎないという東氏の意見には同意しかねますが、毅然として意見を貫く姿勢には敬意を表しておきます。
記事では、主宰の大塚ムネト氏がカーテンコールで「地元しか分からない舞台をつくる」と宣言していることに疑問を呈していました。この点については私も考えがあり、「ギンギラ太陽’sを絶賛する」では「描かれる内容は普遍的なもの」「九州の知識がなくても物語性が高ければ観客はついてこれます」と書きました。『翼をくださいっ!さらばYS-11』は馴染みやすい航空業界を描いたものですが、地元ネタと思われる天神流通戦争や九州製菓業界も、少しアレンジするだけで全国に通用すると私は思います。福岡大空襲を知らない土地でも、戦争の悲惨さを知っていれば『天神開拓史』は感動すると思うのです。
地元に密着した題材を描いても、そこにドラマがあれば観客は魅了されます。題材への予備知識があれば親しみや笑いは倍増するでしょうが、それは必須条件ではないはずです。その意味で、次回の東京公演では『翼をくださいっ!さらばYS-11』以外の作品をぜひ上演してください。それがギンギラ太陽’sの真価を問うことになるでしょうし、東氏の批判への回答になるはずです。
06年に大ヒットした映画『フラガール』は常磐ハワイアンセンターにまつわる実話を基にしていますが、福島を知らなくても、炭鉱を知らなくても、フラダンスに興味がなくても、全国に感動を巻き起こしました。ギンギラ太陽’sも全く同じだと私は思います。これからも地元に愛されるカンパニーを目指すのは構わない、けれどその表現は全国に通用するものだという自覚を持ってほしいのです。
私も全く同感です。
今回の東京公演は不義理して見逃して仕舞いましたが、四月の「大ギンギラ博覧会2007『流通戦争スペシャル』」は福岡で観ました。併も、「吠える犬はかまない」・「親切なクムジャさん」等に出演の、コ・スヒィを連れて。終演直後、私が大塚ムネト氏の「福岡の人間にしか解らない芝居を作って行きまァ~す!」との発言に苛々してると、スヒィが「どうしたの?」と訊いて来るので彼の発言を伝え、「私の故郷八王子でも数多くあった百貨店や大型スーパーがなくなった様に、此の話は十分普遍的で『福岡の人間にしか解らない芝居』ではない!其れを此う云うのは、観客に対する冒涜だ!」と云うと、スヒィは「日本語の良く解らない私でも、此れは『韓国でも良くある』話だと解る、『韓国人でも解る芝居』だと云うのに、其う云う云い方は解せない」と答えてました。
「チロルチョコ」が福岡の企業だと知らなくても、チロルチョコは全国区です。東京の人間だって十分楽しめる筈です。
チロルチョコも福岡流通戦争も、福岡の人間と同じに解らなくても、別の解り方で楽しんでる観客に対する冒涜だと云う事です。
大塚さんが「地元しか分からない舞台をつくる」とカーテンコールで挨拶するのは、サービス精神と作品を生み出してくれた地元への感謝の気持ちだと思いますので、福岡公演で言う分には、いいんじゃないですか。
私は決して批判ではなく、エールの意味で書きました。他地域に住む者として、まだまだ全国に通用する作品がたくさんあることを伝えたいだけです。
実はあの時、東京公演でも同様の発言があった事も聞かされてました。更に、其の前に「福岡ラブ」と云う意味合いで、ギンギラの公演では恒例だと云う事も、聞かされてました。其れを聞かされても、何故?って感じだったンです。其処へ、スヒィとの遣り取りがあって、私の違和感をもう一度確認した訳です。
私は韓国の芝居の翻訳をしてますが、韓国の観客と同じ様に日本の観客が理解する訳ではない事を当然覚悟した上で、併しサッサと「日本人独自の視点」等と云い出す一歩手前で、韓国では此う観られるが日本人ならどう観るだろうかと云う観方が出来る様に翻訳をせねばと思って遣ってます。「大ギンギラ博覧会2007『流通戦争スペシャル』」は、其う云う意味で、「福岡の人間なら此う観るかもしれないが、東京の人間である私も、ああも此うも観れるな」と云う気持ちでいた所を、「福岡の人間にしか解らない芝居」と来たので、何故に?と思って仕舞った訳です。吉本隆明の「井の中の蛙」の譬えの様に、特殊性に撤する事こそが普遍性に近付く道であると思っています。「福岡流通戦争」と云う度・ローカルな話に撤したからこそ、私や韓国人のスヒィにも其の普遍性は伝わって来た訳です。韓国の芝居が韓流ブームや素材の物珍しさで丈持て囃されても意味がない様に、ギンギラがエキゾチズムに似た「地方の面白い劇団」と云う括りで終わらない為にも、決して安易に「何処にでもある様な話を書け」と云う意味ではなく、「福岡の人間にしか解らない」と云う言葉が、カーテンコールの「恒例」にならない事を望んでると云う事です。
東京公演でそう挨拶するのもいいんじゃないですか。東京公演を意図的に「地方公演」と呼んでいるぐらいですから、挨拶としてそういう言葉が出ても私はいいと思います。
熊谷さんの書かれていることもわかりますが、カーテンコールと本編は別ですから、本編に普遍性があれば私はそれで満足です。「特殊性に撤する事こそが普遍性に近付く道」というのはまさにそのとおりで、それを作品で示してくれればいいと思っています。
その意味で、2回続けて『翼をくださいっ!さらばYS-11』は手堅いなあと感じたのです。この作品が東京でもウケるのはわかっているはずで、もう少し欲を出してもいいんじゃないかと思ったのです。