芝居を観るとき、その料金を意識するのは観客にとってごく普通の感覚だと思います。高額な料金ならそれに見合った出来で当然という気持ちがありますし、料金が安いのに傑作なら思わぬ拾い物をしたと思うはずです。作品の評価と料金を結び付けて考えるのは、身銭を切る観客にとって当たり前のことでしょう。この自然な感覚が、演劇評論家や演劇記者の劇評から伝わることはほとんどないように思います。それは、彼らの多くが招待されていることに関係していないでしょうか。
作品の評価と料金は別物という考え方もあるかも知れませんが、観客にとっては切実な問題で、そこに思いを馳せない劇評は観客不在です。コストパフォーマンスに言及しろとまでは言いませんが、たとえ招待であっても料金を念頭に置き、バイアスをかけた評価が求められるのではないでしょうか。料金が一定で上映回数が多い映画なら、そのチケットを手にするまでの思いは問われません。けれど料金差が激しく、人気公演はチケット争奪が起きる演劇では、客席に着くまでの期待や思いも印象を大きく左右するはずです。ライブが宿命の演劇にとって、こうした興行面観点を加味するのは重要であり、それを抜きに舞台の上だけを観ている劇評が多いような気がします。
国際演劇評論家協会(AICT)日本センターで、若手劇評家にも招待券がもらえるよう働きかけたらどうかとの動きがあるようですが、そんなことをする必要があるのでしょうか。若いうちから招待に慣れてしまうと、チケット争奪の苦労や料金との兼ね合いが体感出来なくなってしまいませんか。演劇評論家や演劇記者の視線が舞台にばかり向けられ、創造環境や興行の課題がなかなか取り上げられない背景には、招待券に浸かりきった体質があるのではないでしょうか。本来、『現代演劇のフィールドワーク』は社会学者ではなく、演劇評論家が書くべき内容だったはずです。
制作者の側には、演劇評論家や演劇記者は招待して当然という思いがあります。劇評に取り上げてもらったり、助成金の選考に影響を与えたいからですが、それは制作者側の思惑であって、固辞する演劇評論家や演劇記者がもっといてもいいはずです。取材する側とされる側が一線を画すのは、ジャーナリストとして当然の倫理です。日本では長年記者クラブの場所や什器備品を無償で提供する慣習があり、近年は便宜供与だとして批判を浴びています。そう考えるとチケットも購入した上で観劇すべきものですし、少なくとも自ら招待を要求すべきではないでしょう。文化を支える新聞社が演劇記者のチケット代を払えないはずがないですし、演劇評論家なら全額必要経費に入れても税務署は認めるはずです。
私の場合、いただいた招待券を使うことはあっても、自分から招待を希望したことは一度もありません。昨年6月に地域の制作者を東京に招いた「Producers meet Producers 2006」(PmP2006)のときだけ、参加者の観劇代を抑えられないかと思い、特別料金の設定をお願いしました。招待すると言われても敢えて支払うことがありますし、普通にプレイガイドで購入する公演も多数あります。こまばアゴラ劇場の支援会員制度も創設時から特別賛助会員になり、これが使える公演では招待は一切受けていません(招待状がムダですのでどうか送らないでください)。この制度はマスコミ関係者も対象に考えていると、当時の担当者から聞きました。取材費としては安いはずですので、演劇評論家や演劇記者も会員になって招待は辞退すべきだと思います。
私もプロデューサーとしてずいぶん招待状、招待券を発行してきましたが、あとから思うと釈然としないケースも多数ありました。影響力を持つ方に観ていただくことは重要で、場合によっては逆に謝礼を払ってでも足を運んでいただきたいと考えることもありましたが、ご案内もしていないのに突然現われて招待を要求される方、自ら「招待されて当然」という発言をされる方は、やはり人間として好感を抱くことは出来ません。初回は有料で観劇し、次回から招待が欲しければ名刺を置いて帰るなど、スマートな方法はいくらでもあるはずです。
いまでも誰がそういう態度を取ったかは覚えていますし、fringeの読者なら誰もがご存知の演劇関係者も複数含まれています。同様に、票券を扱ってきた人間として連絡なしの欠席は絶対にしたくないし、そうした行為を重ねる方は招待を見合わせるべきだと思います。笹部博司プロデューサーの日記に反応したのも、こうした思いがあったからです(ちなみに、2002年に書いたこの記事をずっと覚えていてくださって、PmP2006の笹部氏ゲストが実現したのです)。反対にお忍びで必ずチケットを買ってご覧になる著名人もいて、そういう方はどんなスキャンダルを起こしても応援したいと思っています。
演劇賞や年末回顧記事を見ると、高額な料金の作品が並んでいます。確かに作品として評価すべきものだと思いますが、それだけ高額な料金なら評価されて当然じゃないか、改めて賞を与える必要があるのかと私はよく思います。もちろん、誰もが納得する傑作はあると思いますが、低予算・低料金で奮闘している作品を評価する役割も、演劇ジャーナリズムは担っているはずです。選考委員を務める演劇評論家、演劇記者が招待に慣れきって、料金という観客に最も身近な指標を忘却していないことを祈ります。評論家や記者が招待されたり便宜を図られるのは、なにも演劇界に限ったことではありませんが、他の業界は評価の基準に価格や客観的数値がそれなりに加味されていたり、極端な価格差がないと思います。
制作者がお世話になった方、ぜひ観ていただきたい方を招待するのはいいけれど、職業として劇評を書く立場の人間は、そこにもう少し毅然とした価値観があってもいいのではないか、たとえ招待でも料金を支払っている観客の思いを忘れてはならないのではないかと考えます。招待が当然となっている現状に一石を投じたくて、この文章を書きました。
演劇は評論家を無料で招待する必要があるのか?
評論家を無料で招待せず、優先枠を設けて、当日の開場時刻までに予約があれば正価で販売することにするというのでよいのでは。
招待券のもっとも大きな弊害は批評の切れ味が甘くなることではないんでしょうか。すくなくとも私は招待券をいただいた小劇場の公演で辛口の批評を書くことはできません。招待券を出したほうの思いを考えるとばっさり斬って捨てることはできないからです。そして演劇制作者の本当のもくろみも、辛口の批評を書かせないことにあると思います。
そんなわけで、荻野さんも、馬鹿なことを言っているAICTなんかさっさとやめたらどうですか。誰がそんなことを言い出したのか知りませんがだいたい見当がつきます。根性が腐ってますよ。
「影響のある方に来ていただくのは重要で、場合によっては謝礼を別途に・・・」とありますが、私の経験した範囲では、雑誌などのメディアに取り上げてもらうには広告を出さなければならない、ということでした。でなければ1行だって、書いてくれません。それはたくさん広告料を支払ってくれている方に対して「不公平」なんだそうです。そうなるとどこまでが広告ページなのか、劇評などのページも広告に含まれているのかわかりません。もっといえば原稿を書くのは広告主なのかもしれません。ただ私にいえることはマスコミの影響力というのはとてつもないものであり、そこから各自の価値観に見合ったものを選ぶのは常に消費者である観客にまかせるしかないということです・・・。
タダ飯タダ酒タダ芝居
久しぶりにfringeのblogに釣られてみる。だいぶ順序を入替えた引用になっているのはご勘弁。「演劇評論家や演劇記者の招待」 「招待」という言葉を使うから高尚な話題に聞こえるけど 制作者の側には、演劇評論家や演劇記者は招待して当然という思いがあります。劇評に取り…