制作者が主宰と対等の立場で議論出来るように、「主宰」という名称を「芸術監督」に変えたらどうだろうと考えています。
「主宰」というと、文字通り団体の頂点にいる統率者ですが、劇作家=演出家=主宰が圧倒的に多い小劇場系カンパニーでは、経営的資質ではなく芸術的資質がなによりも求められているのが実態です。プロデューサー的才能を発揮する演出家もいますが、演出家が無条件に主宰になることが必ずしもベストな選択とは言えないでしょう。ここは「芸術監督」と呼んで、芸術部門の最高責任者であることを明確にしたほうがすっきりするのではないでしょうか。
制作者はプロデューサーとして、経営部門の最高責任者になります。こうして、芸術部門と経営部門という両輪の責任者が対等に議論することで、団体はより活性化すると思います。「芸術監督」という響きは重みがありますが、そのプレッシャーと闘いながら作品と向き合うほうが、作品に好結果をもたらすのではないでしょうか。
団体としての代表者は、最高経営責任者がなるべきですから、この考え方で行くとプロデューサーが適任でしょう。もちろん、芸術面の代表者は芸術監督が前面に出ます。「主宰」という言葉の呪縛を解き放つために、「芸術監督」を使ってみたらどうかと思います。
主宰と芸術監督に思うコト
気になる記事を読みましてね。 fringe blogさんの「主宰」から「芸術監督」にです。 コチラで制作者が主宰と対等の立場で議論出来るように、 「主宰」という名称を「芸術監督」に変えたらどうだろうと考えています。 と、書かれているんです。 うぅ~ん? 芸術監督は、芸…
ちょっとわからない点があるのですが、芸術面の責任者が芸術監督、経営面の責任者がプロデューサー。
では、カンパニーの運営責任者というのはどちらになるのでしょう? 「座長」「主宰」「代表」といった肩書きの人間が不要というご提案でしょうか?
それとも座長二人制度のようなことに近いのでしょうか?
最高責任者がどちらなのかわからない状態は劇団員の混乱を招くのではないかと思うのですが、その点いかがでしょう?
失礼、ご提案の最後の部分を読み落としていました。
プロデューサーが団体の代表者たるべきということですね。
たいへん失礼いたしました。
ひとつの理想としてはありえると思います。
しかし、現実的に劇団の代表を務められる制作者は小劇場界に少ないでしょうね。
経営責任者だから代表、というわけにはなかなかいかないでしょう。制作者がそういった理想を掲げることはいいと思いますが、演出家が主宰であるべきでないというところまでいくとあまりに現実離れしているように思います。
主宰と制作者が議論できないという問題の解決法としては間違っているような気がしてなりません。
主宰と議論できない制作者は団体の代表もできないのではないでしょうか?
こんにちわ。はじめて書き込みさせていただきます。
演出=代表者が必ずしもベストな選択ではない、という
部分に同意します。
経営と、創作は別物ですものね。
ただ、最高経営責任者=代表者、という部分は
ピンと来ません。
代表者と最高経営責任者は違う概念であり、
求められる能力も違うと判断するからです。
結論としては、代表者に向いた人が代表者に
なればいいのではないでしょうか。
そしてそれは必ずしも、劇作家、演出家、制作者では
なくてもいいと思います。
少し議題から離れますが、
私の周囲では、創立者が代表者となっている
劇団が多い気がしています。(統計を取ったわけではないので、感覚的なものです)
初めて書き込みさせていただきます。
現在の小劇劇界の状況ですと、主宰になれない人が、別の演劇との関わり方として、制作者を選んでいる場合が多々あるのではないでしょうか?
調査をしたわけではないので断言はいたしませんが、その点において、主宰と制作者の間にヒエラルキーが発生してしまう構造があるように感じます。まずは制作者の専門性を明確にすべきではないでしょうか?
それと、これは提案なのですが、もし主宰という名称を芸術監督に言い改めるのであれば、最高経営責任を担う制作者については「社長」と言い改めると良いのではないでしょうか?
夏井さんが指摘される
「主宰と議論できない制作者は団体の代表もできないのではないでしょうか?」
には同意いたしますが、とりあえず、それぞれの名称についてはそのように思います。
夏井さんの指摘されていることは、全くそのとおりです。
この文章は議論のきっかけになればと思い、無謀なのを承知で書いたものです。トラックバックをいただいた「Z107M-tracer-」でも例外をご指摘いただき、「キャリアを持つ専任制作者がいる団体で、その能力にもかかわらず発言権がない場合に、こういう考え方もあるのではないかという試論です」とご説明しました。
本来は肩書に関わらず芸術的議論が出来るのが理想だと思いますし、そうあってほしいと願っています。ただ、なにか外科的療法がないかと言われたら、一つのアイデアとして「芸術監督」を使ってみるのも手だと思うわけです。「Z107M-tracer-」のほうにも書きましたが、この試案はtptをイメージしています。
山本さんの書かれている「社長」は、会社組織の場合はそれでよいと思いますが、任意団体が多い小劇場系カンパニーでは、「代表」がふさわしいかと思います。
あとは、「芸術監督」という呼称そのものが孕む問題もありますね。
一般的に芸術監督というと、複数の演出家が仕事をする劇場において全プログラムの芸術的責任を担う役職だと思います。新国立劇場の栗山民也氏、世田谷パブリックシアターの野村萬斎氏などですね。
ですから、一劇団の主宰が
「この度主宰から芸術監督になりました。私はreset-Nの芸術監督です。」といったアナウンスメントをした場合、reset-Nが複数の演出家を起用する組織に変身するような印象を与えてしまう危険性が高いでしょう。
(逆にいうと、複数の演出家が在籍する大手劇団に芸術監督がいないのは本来おかしいことだと思います)
蛇足ながら、ヨーロッパにおいては芸術監督は経営面の失敗から解任されることもあります。
演出家=主宰が独裁的暴君にならないことは大切ですが、芸術監督という肩書きの採用は適切なソリューションではないでしょう。