私自身は、しっかり感染予防対策をした上でなら公演は続けてもよいという考えで、演劇がいかに脆弱な経済基盤の上に成り立っているかを実感してきたので、野田秀樹氏の意見書「公演中止で本当に良いのか」にある「観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべきと考えます」、平田オリザ氏のNHK総合「おはよう日本」インタビューにある「製造業の支援とは違うスタイルの支援が必要になってきている」に異論はない。この主張そのものには全く同感である。
一方で、野田氏の「スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません」、平田氏の「製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね」という比較が批判を集め、バッシングを受けた。誰もが例外なく厳しいコロナ禍の状況では、比較すること自体がおかしいという意見はそのとおりだと思うが、両氏の表現が本当に演劇界と世の中のギャップそのものなのか、問題点を自分なりに整理しておきたい。
まず、両氏の視点の基本は「物事の本質を語ること」だと思う。野田氏の「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術」は、まさに演劇の本質である。スポーツの場合、もちろん観客がいてこそ成り立つプロスポーツもあるが、突き詰めると記録や勝敗といった自分自身との闘いではないだろうか。これに対し演劇は、たとえアマチュアでも観客がいないとやること自体に意味がない(ここでは本質を語っているので、配信には触れない)。平田氏の「客席には数が限られてますから」も、ストックが出来ない演劇の本質を語っている。製造と販売に時間差があり、物理的にストックが可能な製造業との特徴的な違いを際立たせたかったのだろう。
両氏にとっては他業界と優劣をつける意図はなく、本質を語るための比較だったが、平時なら腑に落ちる内容も、今回のコロナ禍では本質だけでは語れない広範囲な影響が発生し、本質を語ることが逆に物事を単純化、矮小化していると受け取られたと考える。確かにスポーツイベント自体は無観客で成立するかも知れないが、それによって経済的損失を受ける人々は周辺業界を含めると数え切れないし、ファン自体の精神的損失も計り知れない。製造業もサプライチェーン自体が毀損してしまえば、製造や販売自体が困難になる。製造業も絶えず改良とマーケティングが繰り返されており、その意味では公演の数年前から準備を重ねる演劇と全く同じである。
物事の本質を見つめ、日常の生活では見えてこない姿をあぶり出していくのが、演劇という表現の醍醐味の一つだと思うが、今回はその本質を語る行為が逆に反感を招いてしまった。これは長年演劇に携わってきた私自身にとっても意外で、これまで重要と考えられていた「物事の本質を語ること」が必ずしも正解ではない場合があることを実感した。これは純粋なアーティストほど陥りやすい盲点ではないだろうか。どんなに正論であっても、それが他者を説得することが出来る表現なのかは、全く別の問題なのだ。
物事の本質を語るのであれば、最後まで本質を語らなければならない。平田氏が補足説明として書いたブログ「主宰からの定期便」で、「『SHOWほど素敵な商売はない』というのは、二年、三年とロングランが続けられる(それもきわめて限られた作品のみですが)ブロードウェイなどのおとぎ話」と書いているが、だったら「製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね」も、製造業の人にとってはおとぎ話だろう。前者がブロードウェイの限られたロングラン作品なら、後者も限られたヒット商品の話だろう。相対的な比較と言いながら、演劇業界だけを「おとぎ話」としているのは、比較の基準が恣意的すぎる。「SHOWほど素敵な商売はない」はむしろ舞台の魅力を伝える本質を語った言葉で、製造業のものづくりの喜びと対比させてこそ意味があると思う。
では、どう語るべきだったのか。「本質を語る行為が逆に反感を招いてしまった」と書いたが、他業界との相対的比較ではなく、演劇の本質だけを突き詰めれば、ここまでの批判は起きなかったのではないか。「演劇は観客なしでは成立しない」「演劇は元々支援がないと成立しない」といった、純粋な演劇の本質だけで語り尽くすべきだったと思う。特に後者のような、一部の商業演劇を除いて演劇が公演単体では利益が出ない収支構造や、だからこそ本格的な公的助成が30年前から続けられていることは、演劇関係者以外にはほとんど知られていないと思う。こうした点をわかりやすく伝えることが重要だったのではないだろうか。
平田氏の言うように、支援策はそれぞれの産業構造にふさわしいものが必要だ。ブログでは農業の公的性格と補助金制度を説明しているが、この例こそが芸術である演劇の支援に近いと思う。小規模な農業と同様に、演劇も平時から満員になっても実態は赤字だ。製造業と比較するのではなく、最初から農業との類似点を示しながら支援の必要性を説明すれば、全く違った印象になったのではないだろうか。説明の引き出しをたくさん持っているはずの平田氏が、今回は開けるべき引き出しを取り違えた印象を受ける。
これまで、演劇関係者や演劇ファンのあいだで受け入れられてきた説明が、今回は大きなバッシングを招いた。誰もが自分自身のことで精一杯になっている状況では、本質を語ることがレトリックと受け取られる場合があることを、本質を語ることが大好きな演劇人は強く意識すべきだと思う。もちろん、こんなときだからこそ本質を語ることが重要という意見もあるだろう。その許容範囲を確かめ合うのが議論であり、決して二項対立するような内容ではないと思う。そして意見の相違だけで全否定するのではなく、相手の真意に思いを巡らすことが、互いに理解することへの唯一の道だろう。「演劇を批判する人は劇場に来ない」と切り捨てるのは簡単だが、そうした人にも「自分は行かないが、自分の街にあってもいい」と思われる劇場になりたいものである。
余談だが、私はドラマ「鈴木先生」が好きで、今年のゴールデンウィークに再見した。『漫画アクション』に連載された原作よりもドラマのほうが整理され、全話のエピソードが最終回に向かって回収されていく構成が素晴らしい。この作品で描かれる多様性に対する一歩退いた考え方、それがSNSの時代にこそ重要ではないかと痛感している。
連休中はドラマ『鈴木先生』を久しぶりに全話見た。多様な価値観がある現代だが、それぞれの価値観が必ずしも「正しい」のではなく、その価値観が「認められているに過ぎない」と考えることで、特定の価値観を押し付けたり、全否定しないことが、本当の多様性ではないかと全編を通じて訴えかける傑作。
— fringe (@fringejp) 2020年5月10日