日本でも国のアーツカウンシル試行的導入が平成23年度文化庁概算要求に計上されたが、全国のアーティストを誰が評価するかについて、平田オリザ氏はポスドクで調査組織をつくり、夜行バスで全国を回らせることを主張している。10月18日に開催された世田谷パブリックシアター特別シンポジウム「劇場法を“法律”として検証する」でも同じ趣旨のことを述べており、持論は変わっていないようだ。
これに対し衛紀生氏(可児市文化創造センター館長兼劇場総監督)は、創造現場の人間が感じているのは「不信」であり、それを軽減するには学者や研究者や評論家ではダメで、アーティストやプロデューサーがキャリア・ブレイク(サバティカル)でアーツカウンシルに属するべきだとしている。
私は、この件については衛氏の考えに全面的に賛成である。平田氏の意見は、自身の経験を都合よく解釈しすぎだと感じる。
平田氏が深夜バスと書いているのは、こまばアゴラ劇場「大世紀末演劇展」の参加団体を探すために全国を回った経験からだろうが、劇場支配人である平田氏が自身の演劇祭に参加する団体を探すことと(その後の「サミット」ディレクターも同様)、芸術団体の評価をするアーツカウンシルの調査員とは、意味が全く異なる。前者は芸術監督と同じなので独断と偏見で決めてもいいが、後者は評価されるアーティストがどこまで納得するかが問われるだろう。
平田氏自身、青年団が1993年に藤沢市湘南台文化センター市民シアターで初の中劇場公演をした際、様々な制約があったが太田省吾氏が芸術監督だからこそ従えたということを各所で述べている。「太田省吾さんの頼みなら仕方がない」ということである。同じことがアーツカウンシルにも言えて、「××××さんの評価なら仕方がない」という風にアーティスト側が納得する必要があるだろう。果たして××××にポスドクの名前を入れて成立するだろうか。
青年団を例にすると、『ソウル市民』の評価が初演と再演で全く違ったことも忘れてはならない。89年の初演が評価されず、91年の再演が絶賛されたことについて、平田氏はこう書いている。
「見る人」の人選とは、このように重大な責任を帯びている。ポスドクにその任が務まるとは、やはり私は思えない。平田氏が若い才能を発掘する重要性を考えているのなら、むしろ平田氏自身がサバティカルでアーツカウンシルに所属し、全国を観て回っていただきたいと思う。平田氏に判定されたのなら、大概のアーティストは納得するだろう。
ポスドク起用の発想は、日本学術振興会科学研究費補助金(科研費)のピア・レビューを参考にしていると思われるが、書面の査読と舞台芸術のレビューは全く違う。舞台芸術の場合、「これぞと思う人」に本番をライブで観てもらうことに尽きるわけで、ポスドクの調査結果だけで評議委員会が決定するのは、やはり納得感が得られないと思う。
アーティスト自身にも刺激を与えるため、異なる分野の若いアーティストを起用し、アーティスト同士で評価させるのならわかるが、ポスドクを起用することで現在の問題が解決するとは思えない。ここにはシステムの改革だけでなく、国の助成制度が長らく地域のアーティストに対して与えてきた「不信」の回復という課題がある。「見る」だけでは解決せず、「見るべき人」が「見る」ことが必要なのだ。アーツカウンシルが日本に根付いたあとならともかく、導入時はアーティストが納得する人材の投入が必要だと思う。