関西の演劇制作に多数の人材を輩出したのが、情報誌『プレイガイドジャーナル』(1971年~88年、86年『ぷがじゃ』に改名)でした。
ブレーンセンター
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1970年の演劇センター68/70(現・黒テント)『翼を燃やす天使たちの舞踏』関西公演を手伝った学生たちが創設メンバーだった関係で、雑誌発行と平行して演劇イベントも多数手掛け、関西に制作という概念を根付かせたのも、この人脈だったと言って過言ではないでしょう。東京にも『シティロード』出身の渡辺弘氏(銀座セゾン劇場→シアターコクーン→まつもと市民芸術館→彩の国さいたま芸術劇場)のような方がいますが、関西の「プガジャ」出身者は本当に多彩です。
2代目編集長の林信夫氏(つかこうへい劇団などを招聘)、演劇担当の松原利巳氏(近鉄劇場→シアターBRAVA!→大阪市立芸術創造館)、企画担当の津村卓氏(扇町ミュージアムスクエア→AI・HALL、びわ湖ホール、財団法人地域創造、北九州芸術劇場)、6代目編集長の小堀純氏(扇町ミュージアムスクエアや大阪市の演劇企画多数)、さらには俳優としてガンジー石原(石原基久)氏も輩出しています。その後の方向性の違いはあるにせよ、関西の人材供給源だったのは間違いありません。
大阪府立文化情報センターによる市民講座「新なにわ塾」が、その「プガジャ」編集者による連続講座を2007年に企画し、このほど単行本にまとまりました。「新なにわ塾叢書」シリーズの1冊目で、当時のサブカルチャーを紹介する詳細な注釈と巻末資料付き。新書サイズながら420ページあります。まだ「情報誌」という言葉もなかった創刊時代の様子から、後発の競合誌との棲み分け、版元との対立から編集部が一斉退社するまでが克明に語られています。議論を巻き起こしたB6判からB5判への変更、吉本興業の掲載拒否事件などの裏側もしっかり語られています。これも20年という時間の成せる技でしょう。
この時代に関西で過ごした方なら、誰もが「プガジャ」に関する思い出を持っていることと思います。演劇に限らず、映画や音楽のイベントでお世話になった方も多いのでは。私個人は全くの部外者でしたが、とある要件で一斉退社の直前に編集部を訪ねたとき、応対していただいた副編集長の兼田由紀夫氏が、「僕ら、あと10日でみんな辞めるんですよ」と吹っ切れた笑顔で語っていたのをいまでも覚えています。最後のB6判(82年12月号)は、もちろん永久保存しています。