この記事は2016年5月に掲載されたものです。
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小劇場演劇の〈引き出し〉を駆使して「死」と向き合った現在進行形の物語、アマヤドリ『ロクな死にかた』再演に圧倒される

カテゴリー: フリンジのリフジン | 投稿日: | 投稿者:

●「fringe blog」は複数の筆者による執筆です。本記事の筆者は 荻野達也 です。

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アマヤドリ『ロクな死にかた』

すべてのアーティストにとって、「死」は必ず向き合うことになる究極のテーマだ。誰もが題材に出来るが、その本質に迫った小劇場演劇は意外に少ない。つくり手自身が若いという事情もあるが、「生」「死」を二律背反で描き、人生の貴さを訴えるものが多いように感じる。もっと視点を引いて、人間の関係性において「生きている」とはどういうことなのか、そこから見えてくる死生観を浮かび上がらせたのが、アマヤドリ『ロクな死にかた』である。

語り手である男が病気の女に聞かせるのは、亡くなったあとも更新され続ける「毬井まりい」という青年のブログの話。遺言で日記やパスワードを託された友人が更新しているのだが、それを目にした「毬井」の元恋人は相手が生きていると信じ、周囲の人々による犯人捜しが始まる……。語り手と物語の二重構造に加え、物語内でのカットバック、さらには語り手と物語をつなぐ謎の少年も登場し、幾重にもレイヤーが重なっているように見える。

この作品では、俳優たちが開場直後から舞台上で準備運動を始め、そのまま終演まで楽屋に戻らない。ほとんど素舞台に近い平土間の隅で、出番以外も上演を見守っている。その位置や視線すべてに意味があり、観客がそれを意識した瞬間、さらなるレイヤーが脳内に広がる仕掛けだ。純粋に物語だけを追っても楽しめるが、その構造に気づくと、作品世界が劇的に広がっていく。

ブログに残された文書、ICレコーダーに録音された音声など、現代のツールを駆使して「バーチャルに生きる」話かと思いきや、遺された人々の心の襞を丁寧に描くことで、「生きている」とは周囲にそう実感する人間がいること、そうした人間がいるうちは「生きている」という考え方が提示される。「生」を美化するわけでもなく、「死」から目を背けるのでもなく、作・演出の広田淳一氏が考える/考え続けている現在進行形の回答だと思う。

自分が死んだあとで消えるのは、自分の方なのか世界の方なのか。
普通に考えりゃ世界は自分より大きい。
でもひょっとすると、世界は自分の頭の中にすっぽり収まっているのかもしれない。

「毬井」が遺した言葉だ。人の存在とはなんなのか。生物としての「死」ではなく、社会における「死」を考えたとき、この作品が届けている死生観は、私自身とても腑に落ちる。どんなにがんばっても、どうせいつかはみんな死んでしまう。そのことをきちんと受け止め、広田氏自身が真摯に考え抜いた過程が、作品の端々から感じられる。

「死」を意識する年齢が幼少期だと、その後の人生も確実に変わるのではないだろうか。私は小学生のとき事故で妹を失い、それ以来「死」を考え続けている。「毬井」は幼稚園のときに見たテレビの「超電子バイオマン」がきっかけだったと語るが、これは広田氏自身の実体験だろう。「死」を考え続けてきた広田氏が、戯曲の題材というより、ずっと向き合ってきたことを言語化した作品ではないか。だからこそ、私は圧倒的な共感を覚えるのだ。

語り手の世界と「毬井」の物語は重なっていき、相手の「死」をいかに受容するかを描いていく。登場人物たちの「生」のリレーが行なわれ、観客もその途中にいることが知らされる。物語と構造が一気に収束していく展開はカタルシスだが、さらに全体を包む醒めた視点があり、作品世界の奥行に私は戦慄した。これは現在進行形の物語であり、いつ誰に起きても不思議ではないのだ。『ロクな死にかた』、それはあたりまえの「死」なのだ。

重いテーマを扱いながら、エンタテインメント性も高い。叙情あふれる詩的なシーンと爆笑を誘うギャグシーンを織り交ぜ、そのバランスが絶妙だ。両者が隔離することなく、螺旋のように寄り添いながら進行する様は、小劇場演劇が持つ多彩な〈引き出し〉を駆使しているようだ。畳み掛けるマシンガントークや、30代とは思えない広田氏のギャグセンスは、80年代の小劇場全盛期を連想させ、そのギャップが実に楽しい。

アマヤドリの特徴である群舞も、遺憾なく魅力を発揮している。ポストパフォーマンストークによると、初演の振付は笠井里美氏が担当し、再演は一川幸恵氏が手を加えたそうだ。導入部の全力ダンス、雑踏での営みを描いた群舞、モノローグに深みを与える群衆の動きなど、それ自体が「生」の象徴であり、俳優と観客という演劇の枠組みまでが、新たな構造に思えてくる。元々場面転換に定評のあるカンパニーだが、会話劇と不可分の群舞で構成されたこの作品は、その最高傑作ではないだろうか。

『ロクな死にかた』は、アマヤドリの前身「ひょっとこ乱舞」時代の2011年に初演され、第17回劇作家協会新人戯曲賞優秀賞を受賞した。再演に際して登場人物とシーンを削り、上演時間を120分から100分にしている。舞台装置や衣裳も初演からさらにシンプルなものとなり、記号化が徹底された。情景と合致した効果音を交えた音響が、観客の想像を掻き立てる。ブログを読むスマートフォンのバックライトで、俳優が浮かび上がるのも美しい。

思えば、媒体に残せない演劇という表現も、観客の記憶の中で「生きている」存在だ。観客が強く実感しているうちは、その作品は「生きている」と言える。演劇は、この作品で示される死生観そのものなのだ。人生と演劇が重なり、小劇場ファンはたまらない気持ちになる。

5月27日から始まるツアー最後の公演地、大阪・in→dependent theatre 1stで記憶に留めてほしい。