観客動員やカンパニーの東京一極集中に対する「南方演劇論」と「某日観劇録」のやりとりを拝見しました。演劇制作ワークショップのディベートに最適なテーマだと思います。下記の順に掲載されました。
南方演劇論「チラシの束、劇団の束」
某日観劇録「存在意義を考えるよりも動員1万人を目指せ」
南方演劇論「東京的数の論理だけが、『存在意義』ではない」
某日観劇録「存在意義を考えるよりも動員1万人を目指せ」補遺
どちらの言い分もわかります。集団の数だけ進むべき道はありますから、これは選択肢の問題であって、どちらが正しいというものではないでしょう。ただ両者のスタンスに違いがあり、南方演劇論は地域の現状を肯定的に述べているのに対し、某日観劇録は演劇を活性化させたいという思いがにじみ出ており、その差が文章に表われていると感じます。
私がここで問いたいのは、選択肢自体に間違いはなくても、その選択肢を活かす充分な演劇制作をしているかということです。南方演劇論はこう書かれています。
集団の表現や方向性によっては、こうした考え方も当然あるわけですが、ここで重要なのは「自分たちの存在をきちんと周知しているか」ということです。人口30万人の都市で観客動員が200名の場合、その200名が30万人から選りすぐられた200名なら意義あることですが、自分たちの周囲だけで集めた200名ならもったいないと思います。東京ではアンテナを張っている演劇フリークも多いため、無名でも観客はある程度集まりますが、地域では自ら努力して存在を示さないと、存在自体が伝わりません。集める努力をした上で「集まらない芝居が悪いのではない」と言うのならいいのですが、そこまで胸を張って言える小劇場系カンパニーは稀だと思います。
南方演劇論では、宮崎と東京の2拠点制で活動するOrt-d.dを「時代を先取りしたもの」と評価しています。しかし、逆に考えると短期間で評価を確立した倉迫康史氏の行動力こそ、地域の演劇人が見習うべきものではないでしょうか。倉迫氏ぐらいの活動をして、それでも動員が200名だったときに初めて意味のある200名と言えるのではないでしょうか。倉迫氏は演出家としてだけでなく、プロデューサーとして非常に才能があります。地域で存在意義を示すなら、東京以上にプロデューサーを育てなければならないと思います。
動員数が少ないのは、公演日数も関係しています。いま東京以外の小劇場系の公演は、週末のみの場合がほとんどです。週末だけだと都合が合わない観客も多いでしょう。せめて平日も含めた1週間、それが難しいならアトリエ公演などで週末を複数設定するなど、観劇の敷居を下げる展開が必要です。
と南方演劇論は書かれていますが、私は逆に祝祭性は不要で、演劇鑑賞が日常生活の一部になってほしいと願っています。野外公演のようなイベント性の高いものは別にして、通常の劇場公演は映画のように、平日の仕事帰りに気軽に立ち寄れるものであってほしいと思います。祝祭性は感動の要素の一つですが、力のある作品は祝祭性とは無関係に、内容だけで観客の魂を揺さぶるはずです。仕事に疲れた夜、何気なく足を運んだ劇場で感動に出会えることがわかったとき、観劇人口はもっと増えるでしょう。
引用していただいている、南方演劇論 おかだです。
最初のエントリは、雑感的に書いた物だったので、こちらにまで取り上げられてしまって、驚くやら、なにやら、正直やれやれ、という感じではあるのですが・・・。
私は宮崎の演劇環境(見る側も演じる側もそれをつなぐ側も)が少しでも良くなって欲しい、という視点が原点ですから、そこからはどうしても離れられません。
もちろん、地方(宮崎)には課題が山積みで、特に制作はあまり力が入れられてこなかった部分だったと思います。私自身は今は傍観者ですから、これ以上建設的なことは何もできないのですが。
祝祭性、については、私もちょっと危ないことばを使ってしまったなとの自覚はありました。「観劇体験の非日常性」というぐらいの感覚で、読んでいただければと思います。
しかしその中にも、観劇すること自体が日常的かどうかということと、劇場空間で創造される非日常空間体験、という2つの意味があるのかなと思います。
両者をあまり区別せずに私は使いました。宮崎のような土地では今のところ前者のような非日常性が多いのが現状です。
劇場に足を運ぶことが日常的なことになるという都市環境は素敵なことですが、滅多にない観劇機会にドキドキするという初心な感覚を、50になっても60になっても感じられる農村感覚も捨てがたいのです。
ところで、後者の意味(劇場空間の非日常性)でさえ、非日常性を感じられなくなってしまっても、演劇に感激することができるのでしょうか。そういうことに関係なく感激できるのが質の高い演劇なのだ、ということなのでしょうね。
じゃあやっぱりお前は宮崎は今のままの演劇僻地で良いということなのか、と言われそうですが、そうではなくて、このローカルでしかありえない感覚をうまく取り込みながら、演劇環境を良くして行くにはどうしたらよいのか考えていきたい、ということなのです。
引用していただいたもう片方の六角形です。こちらに取上げられるときは大抵お騒がせな内容で、ちょっと恥ずかしいです。あの乱暴な文章に「演劇を活性化させたいという思いがにじみ出ており」とは、過分な評価、恐れ入ります。
「力のある作品は祝祭性とは無関係に、内容だけで観客の魂を揺さぶるはずです」の一文、心に染みます。
酔って絡んで岡田さんにはご迷惑をおかけしました。